2013年10月4日金曜日

『日本書紀』垂仁天皇 二十三年九月~二七年二月


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 『日本書紀』垂仁天皇 二十三年九月~二七年二月

 二十三年秋九月丙寅朔丁卯詔群卿曰誉津別王是生年既三十髯鬚八掬猶泣如児常不言何由矣因有司而議之

 冬十月乙丑朔壬申天皇立於大殿前誉津別皇子侍之時有鳴鵠度大虚皇子仰観鵠曰是何物耶天皇則知皇子見鵠得言而喜之詔左右曰誰能捕是鳥献之於是鳥取造祖天湯河板挙奏言臣必捕而献即天皇勅湯河板挙板挙此云拕儺曰汝献是鳥必敦賞矣時湯河板挙遠望鵠飛之方追尋詣出雲而捕獲或曰得于但馬国

 十一月甲午朔乙未湯河板挙献鵠也誉津別命弄是鵠遂得言語由是以敦賞湯河板挙則賜姓而曰鳥取造因亦定鳥取部鳥養部誉津部

 二十五年春二月丁巳朔甲子詔阿倍臣遠祖武渟川別和珥臣遠祖彦国葺中臣連遠祖大鹿嶋物部連遠祖十千根大伴連遠祖武日五大夫曰我先皇御間城入彦五十瓊殖天皇惟叡作聖欽明聡達深執謙損志懐沖退綢繆機衡礼祭神祇剋己勤躬日慎一日是以人民富足天下太平也今当朕世祭祀神祇豈得有怠乎

 三月丁亥朔丙申離天照大神於豊耜入姫命託于倭姫命爰倭姫命求鎮坐大神之処而詣莵田筱幡筱此云佐佐更還之入近江国東廻美濃到伊勢国時天照大神誨倭姫命曰是神風伊勢国則常世之浪重浪帰国也傍国可怜国也欲居是国故随大神教其祠立於伊勢国因興斎宮于五十鈴川上是謂磯宮則天照大神始自天降之処也

 一云天皇以倭姫命為御杖貢奉於天照大神是以倭姫命以天照大神鎮坐於磯城厳橿之本而祠之然後随神誨取丁巳年(垂仁二六年丁巳前四)

 冬十月甲子遷于伊勢国渡遇宮是時倭大神著穂積臣遠祖大水口宿禰而誨之曰太初之時期曰天照大神悉治天原皇御孫尊専治葦原中国之八十魂神我親治大地官者言已訖焉然先皇御間城天皇雖祭祀神祇微細未探其源根以粗留於枝葉故其天皇短命也是以今汝御孫尊悔先皇之不及而慎祭則汝尊寿命延長復天下太平矣時天皇聞是言則仰中臣連祖探湯主而卜之誰人以令祭大倭大神即渟名城稚姫命食卜焉因以命渟名城稚姫命定神地於穴礒邑祠於大市長岡岬然是渟名城稚姫命既身体悉痩弱以不能祭是以命大倭直祖長尾市宿禰令祭矣

 二十七年秋八月癸酉朔己卯令祠官卜兵器為神幣吉之故弓矢及横刀納諸神之社仍更定神地神戸以時祠之蓋兵器祭神祇始興於是時也

 是歳興屯倉于来目邑屯倉此云弥夜気


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