2013年10月12日土曜日

伊勢詣


 『伊勢神宮』
 遷宮
 『Google画像検索:伊勢神宮』
 『Yahoo画像検索:伊勢神宮』


 出典:「仏教史大辞典」66~69頁」

 伊勢詣(いせもうで)

 伊勢参りともいう。伊勢神宮への参詣のこと。

 伊勢神宮は本来皇室祖先神を祀る所として、臣庶の奉幣を禁じていたが、

 平安時代末期朝廷の財政上の支持が不足すると、

 一般の霊地霊山と同じように御師の制度を生み、

 師檀関係によって広く国民各層の信仰を集めるという情勢に至った。

 当初見られたのは貴族が使僧を遣わして行う代参の形式であったが、

 鎌倉時代後期には尾張・美濃を中心に広汎な層による

 伊勢詣が現出するに至った(『文保服假令』など)。

 南北朝時代のような動乱期を経てもこの動きは増大する一方で、

 室町時代に入るころには、御師の側では檀那株を売買することも、

 参詣者集団の間には伊勢講または神明講を結成することもしきりに行われた。

 すでに正応元年(一二八八)のころ

 通海権僧正(神宮祭主家出身)は『太神宮参詣記』を著わして、

 仏法に帰依することが神宮崇敬と一量も矛盾するもでないことを説いたが、

 康永元年(一三四二)に参詣した坂十仏は外宮禰宜家行の口から、

 参詣の心として

 「念珠をもとらず、幣帛をもささげずして、心にいのる所なき」

 内清浄の境地が至極のものであると説かれている。

 当時行われていた神仏習合説に立って、

 内外の両宮は金剛界・胎蔵界の両部の

 大日の表現であると説くことも一般化した。

 おそらく中世の民衆は、熊野三山や高野山とならべて、

 「南無天照大神ハ一切衆生ノ父母」(『身自鏡』)であり、

 ここに参詣すれば現当二世の福を得られると信じていたのであろう。

 事実関東・東北からは当時伊勢・熊野をあわせて参詣する風があり、

 そのコースも駿河の江尻港から伊勢の大湊へ航行することが多かったという。

 西国の方でも、

 室町時代中期に備中国から牛が伊勢詣をするといって評判になった例があり、

 九州南端の島津氏やその家臣(上井覚兼など)も詣でている。

 こうして狂言に「伊勢は諸国のつきあいで晴いなに依て」などと語られ

 (『素襖落』など)、

 天正十三年(一五八五)キリスト教宣教師が本国に報じたごとく、

 「かれらは、同所(伊勢神宮をさす)に行かざる者は

  人間の数に加ふべからずと思へるが如し」

 というほどの景況となったのである。

 中世末のはげしい政治上、社会上の変動を経た直後、

 慶長十九年(一六一四)はげしい伊勢踊の流行という爆発的現象が起った。

 踊の村々辻々における盛行と種々の託宣の降った評判とが、

 いよいよ伊勢参詣を盛大にしたことはいうまでもない。

 この傾向は江戸時代の民衆に引きつがれてゆき、

 東国の民衆のあいだには、

 一生に一度は伊勢参りと上方めぐりを兼ねた大旅行に、

 仲間数人とともに出るものだ、との通念が広まった。

 日本の民衆のこころには古くから聖地巡拝へのあこがれが強く存在する。

 それは修験道による山岳登拝が最も典型的な形を示して

 (中世の熊野詣の流もそれ)いるが、伊勢詣においても明らかであり、

 その事情は、伊勢詣の出発・留守間・帰着の際の、

 サカムカエ・ハバキヌギ・ドウブレ等々の

 民間習俗の存在によって証明されるのである。

 →伊勢信仰

 (参考文献)

   藤谷俊雄『「おかげまいり」と「ええじゃないか」』(『岩波新書』青六八○ )、

   桜井徳太郎『日本民間信仰論増訂版』 、

   萩原竜夫『山世祭肥組織の研究増補版』

 (萩原 竜夫)

0 件のコメント:

コメントを投稿