2015年10月13日火曜日

魏書倭人章の諸国地理:不弥国


 出典:歴史学講座『創世』:歴史研究家「小嶋 秋彦」

 日本創世記

 第2章 魏書倭人伝の諸国地理

     ―邪馬台国時代の国際性―

  (7)不弥国

  奴国(博多湾)から東方へ百里行った処と説明している。

 当該地を抽出するのに役立つ要件は福津市(旧宗像郡福間町)の

 海岸寄りに小さな区域ではあるが、「有弥の里」とあることにある。

 同地は古賀市との境界にあり、

 同市内に続く海岸地は「花見」と称される。 

 「有弥の里」を奴国の「奴」同様サンスクリット語で解釈すると

 ariya-bhumi〔アーリア人の里〕であり、

 「不弥」の「フミ」は bhumi の音写で、

 同地がインドのアーリア人の系の居留地だったとの示しである。

 末廬国などと比して同地には

 船が着くのに適当な岸壁などはないが、広い砂浜があり、

 船はそこに乗り上げるようにして正面から突き上げるのである。

 紀元頃の古代船は現代のような巨大船で、

 砂浜に突込んでも破損するような馬力もなかった。

 風力を頼りに航行する速力の低い規模の小さいものであった。

 「花見」は「カミ」ではあるがまた「ホミ」で bhumi〔里〕の転訛である。

 同地には、

 古賀市内に小鳥神社〔市内久保〕や千鳥との地名があるように

 インドのバラモン教系の「儺:放生会」信仰がうかがわれる。

 古賀市名の「コガ」がサンスクリット語の khaga で「鳥」が源義である。

 倭人章が「千餘戸」と記す通りそう広い領域ではなかった。

 ここで注目しておきたのは、

 日本海玄界灘側にもインド・アーリア人の貿易商人が

 大規模ではないが進出して来ていたことである。

 次いで倭人章が記すのは「南至投馬國水行二十日」である。