2014年12月31日水曜日

封禅書(9)


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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

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 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦


 《課題》日本文明は中国文化の分派にあらず
     ―神のいる国の情義と神無き国の野蛮―

 司馬遷の『史記』(卷二十八封禪書 第六)

 秦⑥

 〔太史の像〕

 また四十八年後、周の太史の儋(たん)が、秦の献公にまみえて、

 「秦ははじめ周と合わさっていました。

  合わさっていてから離れました。

  今から五百年して、きっともう、一度合わさります。

  合わさってから十七年(?七十年たちましたから覇王がでます」

 と言った。

 〔そのころ〕櫟陽(陝西省臨潼県の東北)に黄金の雨が降った。

 秦の献公は金徳の瑞祥を得たものと自ら判断したものだから、

 櫟陽に、畦時けいじ(韮を種えた畝のような形の祭壇)を作って、

 白帝(金徳は白色)祀った。

 〔周の九鼎〕

 その後、120年(111年?)で、秦は周を亡ぼし、

 周にあった九つの鼎は秦の手に入った。

 最も、ある人の説では、宋(殷の子孫の国)の太丘(宋の国の地名)の

 社(木を植えてしるしにしただけの土地神を祀るやしろ)が亡んだ時に、

 鼎は泗水の彭城(江蘇省・銅山県)あたりの水底に沈んだのだともいう。

 〔水徳の秦〕

 その後(太史像のはなしから)115年後になって、

 秦が天下を併合した。

 秦の始皇は天下を併合すると帝(てい)と称した。

 〔その時〕ある人がこんな事を言った。

 「黄帝は土の徳を身につけていたので、

  黄竜(黄色は地の色とされる)や

  地螾(みみず。おそろしく太く長かった言う)が現れました。

  夏は木の徳を具えていたので、〔天から降りて来た〕青竜が

  郊外に留まり、草木が枝を伸ばしてよく茂りました。

  殷は金の徳を具えていたので、銀が山から溢れ出ました。

  周は火の徳を具えていたので、

  赤い鳥という瑞祥が現れたのでした。

  ところでいま秦は周にとってかわったのでして、

  水の徳の時なのです。

  昔秦の文公が薪刈に出て、黒竜を仕留められたと申しますが、
  
  それこそ水徳の目出度いしるしだったのです」


  そこで秦は、河(か)を徳水と命名し、

 冬10月を1年のはじめの月とし、色は黒を尊び、

 もののはかり方は六をきりめとし、音は大呂を尊び、

 天下を統べるには法を尊んだ。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
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2014年12月11日木曜日

封禅書(8)


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 《参考:年表・資料》

 《課題》日本文明は中国文化の分派にあらず
     ―神のいる国の情義と神無き国の野蛮―

 司馬遷の『史記』(卷二十八封禪書 第六)

 秦⑤

 〔萇弘、狸首を射る〕

 その頃萇弘は方術によって周の霊王につかえたが、

 諸侯には周に来朝するものがなく、周の国力は全く無くなっていた。

 萇弘は鬼人のことに通じていたから、狸の首を的にして射かけた。

 〔狸は別に不来とも呼ばれるから〕狸の首は

 来朝しない諸侯に象ったものである。

 このように夭術に頼って諸侯を呼び寄せようとしたが、

 諸侯は従わず、晋の国の人が萇弘を捕らえて殺してしまった。

 周の人手、物の怪のことを言ったのは、この萇弘が最初である。


 〔上畤・下畤〕

 それから百年余り後に、秦の霊公は呉山の南に、

 上畤:じょうじ(かみての祭壇)を作って黄帝を祀り、

 下畤:かじ(しもての祭壇)を作って炎帝を祀った。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  

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封禅書(7)


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     ―神のいる国の情義と神無き国の野蛮―

 司馬遷の『史記』(卷二十八封禪書 第六)

 秦④

 〔孔子は語らず〕

 それから百年以上も後のことになるが、
 
 孔子が六芸:りくげい(易・書・詩・礼・楽・春秋の六経のこと)

 の意味を述べた。

 その解説の中に、姓を易(か)えて(前王朝を倒して)王となり、

 泰山で封のまつりをし、梁父山で禅のまつりをした

 七十人に余る王について、あらましを述べていながら、

 その時俎豆(そとう)の礼については明らかにしていない。

 それはおそらく言うことをはばかってであろう。

 〔なぜなら〕ある人が禘:てい(王者が始祖を祀るとき天帝を配祀する礼)

 についての詳細をたずねたところ、

 孔子は、

 「知りません! もし禘についての詳細を知っているなら、

  そういう人が天下のことをした場合、

  自分の手のひらの中のものを指し示すようなものだ」

 と言っており(論語の八佾篇にみえる)、

 〔また〕紐が位にある限り、文王は天命を受けても、

 まつりごとは泰山まで及ぼさず、

 武王は殷に勝って二年目め、

 天下がまだ安定しないうちに崩じてしまったことであり、

 詩に『いまし周の徳あまねし、これぞ成王!』というから、

 成王が封禅をしたのは、まず道理に近かったのであるが、

 〔周も〕晩年になると、陪臣がまつりごとをとり、

 季氏(魯の国の大夫の季孫氏)は泰山で旅(りょ)

 (山祭り。諸侯が自分の領土内の山川を祀るまつり)のまつりをしたので、

 
 仲尼はこれをそしっている(論語の八佾篇にみえる)。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
 


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封禅書(6)


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 司馬遷の『史記』(卷二十八封禪書 第六)

 秦③

 〔その後の繆公〕

 この年、秦の繆公は、晋の君の夷吾(献公の子、梁に逃げ出していた)を

 〔晋の国に〕入れ(これが晋の恵公)、その後〔再び、都合〕三度

 晋国の君を立てて(恵公の後懐公と文公)、晋の乱を平らげた。

 繆公は即位してから三十九年で亡くなった。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
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2014年12月8日月曜日

封禅書(5)


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 司馬遷の『史記』(卷二十八封禪書 第六)

 秦②

 〔管仲、封禅を説く〕

 この秦の繆公が位について9年めのこと、

 斉の桓公は既に覇をとなえていて、

 諸侯を葵丘(斉の土地、山東省臨淄県の西)に会合させたが、

 さらに封禅を行おうとした。

 その時、管仲が言った。

 「むかし、泰山(山東省秦安県の北5里)で封のまつりをし、

  梁父山(秦安県の南110里)で禅のまつりをした

  王は72家でございますが、私が記憶しておりますのは12家です。

  むかし無懐氏は泰山で封のまつりをし、

  云々山で禅のまつりをしました」。

 神農は泰山で封のまつりをし、云々山で禅のまつりをしました。

 炎帝は泰山で封のまつりをし、云々山で禅のまつりをしました。

 黄帝は泰山で封のまつりをし、

 亭々山(秦安県の南50里)で禅のまつりをしました。

 顓頊は泰山で封のまつりをし、云々山で禅のまつりをしました。

 帝俈は泰山で封のまつりをし、云々山で禅のまつりをしました。

 堯は泰山で封のまつりをし、云々山で禅のまつりをしました。

 舜は泰山で封のまつりをし、云々山で禅のまつりをしました。
 
 禹は泰山で封のまつりをし、

 会稽山(浙江省会稽県の東南13里)で禅のまつりをしました。

 湯は泰山で封のまつりをし、云々山で禅のまつりをしました。

 周の成王は封のまつりをし、

 社首山(浙江省秦安県の西南2里)で禅のまつりをしました。

 これらはみな天命をうけて、その後に封禅をすることができたのです」

  すると桓公が言った。

 「私は、北方は山戒(鮮卑)を討って

  孤竹国(河北省盧竜県から熱河の朝陽県に至る一帯の地)」を過ぎ、

  西方は大夏(大宛の西南2000余里。大宛伝にみえる)を討って

  砂漠を渡った。

  馬を縛って引き上げたり、車を綱で吊り上げたりなどして、

  険阻な山に登り、

  南方を討っては召陵(故城の位置は河南省郾城県の東35里)まで行き、

  熊耳山(河南省盧氏県の南)に登って江(揚子江)・漢(漢水)を見渡した。

  兵車で行った会盟(戦争の時)が3回、

  乗用車で行った会盟(平和の時)が6回、(さきにみえた葵丘の会等その一つ)

  都合9回、諸侯を会合して、おしなべて転化を正し、諸侯にはたれひとり、

  この私に逆らうものはない。

  むかし、天命を受けた3代の君とて、これとどこがちがうのであろうか?」

  かくて管仲は、ことばでは桓公を追い詰めることができないと見てとった。

 そこで〔とても手に入らない〕ものをならべたてることにして、

 こう言った。

 「むかしの封禅には、

  鄗上に産する黍(もちきび)と北里に産する禾(いね)とが

  盛りものにするもので、

  江・淮のあたりに産する一本に三つのすじのある

  茅(ちがや)が敷物を作る材料でした。

  東の海から比目の魚を取り寄せ、西の海から比翼の鳥を取り寄せました。

  するとそのあとから、

  呼び寄せるまでもなく自然に到来した瑞祥が15もありました。

  ところが今は、鳳凰も麒麟も来ず、目出度い穀物も生えぬばかりか、

  蓬(よもぎ)だの、藜(あかざ)・蛇草(はぐさ)だのが生い茂り、

  梟(ふくろう)などが幾たびもやって来ております。

  それのなのに封禅を行おうとされるのは、

  もしや許されないことではありますまいか?」

  こう言われて桓公はやっと思い留まったのであった。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
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2014年11月30日日曜日

封禅書(4)


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 司馬遷の『史記』(卷二十八封禪書 第六)

 秦①

 〔西畤(せいじ)〕

 周が、殷に勝って後、14代(12代?)で、

 世は益々衰え、礼楽は廃れ、諸侯は勝手な振舞いをし、

 幽王(ゆうおう)は犬戎(けんじゅう)に破られて、

 周室は東の方雒邑(らくゆう)に移った。

 〔その時〕秦の襄公が犬戎を攻めて周を救い、

 始めて諸侯の列に加えられた。

 秦の襄公は候として西方の辺地にいることになると、

 少皥(しょうこう)の神(金天氏、西方の神)を

 司るものと自分で考えて、

 西畤(西方の神をまつる祭壇)を作って白帝(西天の神)をまつり、

 その生贄には、黒いたてがみを持った赤馬・黄牛・牡の羊、

 それぞれ一匹を用いたという。

 〔鄜畤(ふじ)〕 

 それから16年(14年?)のち、

 秦の文公は東の方へ行き汧水(けんすい)・渭水(いすい)の

 辺りで牧狩りをしたとき、

 その辺りに定住することの吉凶を占ったところ、吉であった。

 文公が夢に、黄色の蛇が空から垂れ下がって地面を這い、

 その口が鄜(陝西省の鄜県)の坂道に止まっているのを見た。

 文公が史敦(しとん)に意見を求めると、

 敦は、

 「それは上帝の仮のお姿です。わが君!お祭りをなさいませ!」

  と申しあげた。

 そこで鄜畤(鄜の祭壇)を作り、三つの生贄(牛・羊・豕)を用いて、

 白帝に郊の祭りを捧げた。

 〔雍畤(ようじ)〕

 その鄜畤を作る前から、雍(陝西省鳳翔県)の辺りには、

 もともと呉山の南の武畤(武の祭壇)があり、

 雍の東には、好畤(好の祭壇)があった。

 いずれも廃れて、祭りは行われなくなっていた。

 次のようなことを言う人もいる。

 「昔から雍州の産地は、

  神が隠れていますのに格好の土地がらゆえ、

  祭壇を築き上帝を祀ったもので、

  神々を祀る祠(祀りを行う場所)が、

  みな集まったものだといわれる」

  おそらく黄帝の時に何か行われたことがあり、

 そんな言葉が経書に見えるという事実もないので、

 有識者は語らないことである。

 〔陳宝(ちんぽう)〕

 鄜の祭壇を作ってから9年後に、

 文公は石のようなものを手に入れ、

 陳倉(陝西省宝鶏県の東)の北阪城でそれを祭った。

 するとその神は、ある年には、やってこないかと思うと、

 またある年には幾たびもやってくる来るのであった。

 来るにはいつも夜に乗じてやって来る。

 光り輝くものが流星のように東南から来て

 祠域(まつりをしている北阪城)に集まると、雄鶏のような姿になり、

 鳴き声が響き渡るにつれて、野生の鶏が夜泣きをする。

 一牢(牛・羊・豕の三牲)の生贄を供えてまつり、

 (この石のようなものを)陳宝(陳倉県の宝物)と名づけた。


 〔伏詞〕

 それから14年(13年?)後、秦の繆公(ぼくこう)が立った。

 病の床について5日間眠りつづけ、

 眠りから覚めるとやっと口を開き、

 「夢で上帝のお目にかかったところ、

  上帝はこのわしに晋(しん)の乱を平らげよとの仰せであった」

 と言う。

  史官はこのことを書きとめ、記録として内府に閉まっておいたが、

 後の世の人たちはみな、

 「秦の繆公は天に昇られたたのだ」と

 言い伝えたものである。

《参考》

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2014年11月25日火曜日

封禅書(3)


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 司馬遷の『史記』(卷二十八封禪書 第六)

 虞舜から西周まで②

 それから八代で帝太戊(たいぼ)の世になると、

 宮廷に桑と楮(こうぞ)の木が生えて、

 その日の夕べにはもうひとかかえにもなるという

 不思議なことが興って、〔太戊〕恐れた。

 〔宰相の〕太戊「妖気は徳に勝ちはいたしません」と言い、

 太戊が徳を修めたところ、桑も楮も枯れてしまった。

 〔はじめ〕太戊は〔このできごとを〕巫咸(ふかん)に告げたのであるが、

 太戊(みこ)が勢いを持つようになったのは、

 このこともあって始まる。

 そののち十四代で、帝武丁(ぶてい)が傳説(ふえつ)〔という名臣〕を得て

 宰相にしたので、殷の勢いは再び盛んになり、高宗と呼ばれた。

 雉が鼎の耳に上って鳴いたことがある、武丁が恐れたところ、

 祖己(そき)〔という賢臣〕が、

 「徳を修めてください!」と申し上げ、

 武丁がその薦めに従ったので、その位は末永く安らかであった。

 その後五代で、帝武乙(ぶいつ)は神を侮って(天を射た)、

 雷に撃たれて死に、その後三代で、帝紐(ちゅう)は淫乱の振る舞いをし、

 〔周の〕武王が討伐した。

 これをもとに考えてみれば、

 初めのうちはかしこみ慎しまないものとてはないのに、

 後には次第に怠り侮るようになるものである。

  周官には次の様にいう。

 「冬に日の影が最も長くなったとき〔冬至の日〕、

  天を南郊に祀り、永い日の訪れを迎える

  (冬至が済むと日が長くなる)。

  夏に日の影が最も短くなったとき(夏至の日)、地の神を祀る。

  いずれの場合にも楽舞を用いる。

  神には、このようにしてこそ礼を行うことができる」 


  天子は天下の名山大川を祀る。

 五嶽〔をまつる〕には、〔その犠牲や祭器の数を〕

 三公(太師・太傳・太保)になぞらえ、
 
 四瀆〔をまつる〕には、諸侯になぞらえる。

 諸侯は自分の境域内の名山大川を祀る。

 四瀆とは江・河・淮・済である。

 〔まつりをする宮殿は〕天子の場合明堂もしくは辟雍(へきよう)と呼び、

 諸侯の場合には泮宮(はんきゅう)と呼ぶ。

 ところで周公が成王のまつりごとを援けることになると、

 〔周の祖先の〕后稷(こうしょく)に対して

 郊(こう)のまつりをして天に配し、

 明堂で文王をおまつりして上帝(天のことをいいかえただけに配した。

 禹が勢いを得て社(土地の神)のまつりを整えた頃から、

 后稷が穀物の植付け、取入れをしたので、

 稷(五穀の神)のまつりが始まっていたわけで、

 郊のまつりの由来は、遠い昔にあるのだ。

 ≪メモ≫

 『史記』(卷二十八封禪書 第六)
 封禪

 泮宮

 泮 ban(wen) 江・長江=江水/岷江

 ming 岷 min

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
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2014年11月20日木曜日

封禅書(2)

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 封禅書 第六

 虞舜から西周まで①

  尚書には次のようにみえる。

 『舜は琁璣玉衡(北斗七星)』の運行を観測して七政(日月五星)が

  整っているのかを確かめ

  〔自分の即位が天意にかなっていることを知ったので〕、

  そこで上帝(天帝と五帝と)に

  類(るい)の祭(摂政することがらの事項を報告する)をし、

  六宗(りくそう)(六つの尊ぶべき神)に禋(いん)の祭(精進潔斎する)をし、

  山川に望(ぼう)の祭(国中のあらゆる名山大川をまつる)うぃし、

  群神(丘陵・水辺・平地、および古の聖賢)にまでゆきわたってお祭りした。

  五つの瑞祥

 (公・侯・伯・子・男の五階級に

  よってもちものとしてさだめのある圭や璧)をあつめ、

 めでたい月日をえらんで、四嶽の牧監(地方の長官たち)に会見したうえ、

 そのしるしを返した。

  その年の二月には、東の方へ巡守して岱宗(たいそう)に着くと、

   ―岱宗とは泰山であるが―柴を焼き(天を祀って到着を報告する)、

 望の祭をして山川を順序だてて祀り、

 それがすむと東方諸国の君主たちに会った。

 ―東方諸国の君主たちとは諸侯のことである。

 〔これらの諸国に対しては〕四時〔の季節〕と月〔の大小〕を合わせ、

 日〔の甲子〕を正し、律(十二律)・度(長さの単位)・量(ますめの単位)・

 衡(重さの単位)を統一し、

 五つの礼(吉・凶・軍・賓・嘉の五礼)をととのえ、

 五つの玉(公・侯・伯・子・男がそれぞれ手に持つ圭や璧)

 三つの帛(きぬ)

 (諸侯の世子と公の孤と附庸の君とが

  それぞれ手に持つ玄(くろ)・纁(あか)・黄の絹)

 二つの生きもの

 (卿と大夫とが、それぞれ手に持つ羔(こひつじ)と雁(かり)と)

 一つの死んだもの(士が手に持つ雉)、

 以上の贄(にえ)

 (会見のとき手に持つ礼物)をととのえた。


  五月に、巡守して南嶽に着いた。

   ―南嶽とは衡山(湖南省湘潭県の西四十里)である。

  八月に、巡守して西嶽に着いた。

   ―西嶽とは華山(陝西省華陰県の南八里)である。

  十一月に、巡守して北嶽に着いた。

   ―北嶽とは恒山(河北省省曲陽県の西北百四十里)である。

  そのどこでも岱宗で行った礼のとおりにした。

   ―中嶽とは嵩高である。―

  〔このようにして〕五年に一度、巡守した』

  禹はこのやりかたにならったが、その後十四代で帝孔甲の世になると、

 孔甲が淫乱で鬼人を好み、鬼人の徳がけがされて

 〔天から降ろされた雌雄の〕二竜がたち去った。

 その後三代で、湯(とう)が桀(けつ)を討伐し、

 夏の社(土地の神を祀るところ)を遷そうとしたが、

 承知しなかったので、『夏社』〔という告文〕を作った。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
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2014年11月18日火曜日

封禅書(1)


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 《参考:年表・資料》

 《課題》日本文明は中国文化の分派にあらず
     ―神のいる国の情義と神無き国の野蛮―

 封禅書 第六

 序論

  太古には天命を受けた帝王で、

 封禅(ほうぜん)をしなかったというようなことがあろうか?

 それは、これという兆しもないままで、

 とり行ってしまった帝王もあったことであろうし、

 一方、瑞祥が現れたのを見ながら泰山(たいざん)に出かけなうような

 帝王はなかったからである。

 〔しかし後世では〕天命を受けはしても治績がゆきとどかなかったり、

 ゆきとどきはしても徳がひろくつたわりはしても、

 そういうするだけの余暇がなく、

 そのためそのままに実行うつされたことはほとんどない。

 古書にみえることばにも、

 「三年の間礼を行なわねば、礼はかならず荒廃する。

  三年の間楽(がく)を奏さねば、楽はかならず崩壊する」というが

 世が盛んな時にあえばいつも封禅を行って〔天地の神々のめぐみに〕

 報いるにかかわらず、世が衰えるとともにたちぎえになってしまって、

 それが遠く隔たる場合には千年余り、近くても数百年はひらいたので、

 封禅の祭儀はまるで滅びてしまって、

 その詳細はそれを知る人について聞く機会を得ようもない次第である。

 史記
 史記

 封禅
 封禅

 《参考》

 泰山、玉山(台湾)

 玉皇帝

 yu=    je ji jwa   ⇄  水
   ―――――――
    ロロ語 黄帝の官は「雲=雨・水」」師


  黄帝―ao=ea 水の家

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
 


 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)  
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
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2014年11月16日日曜日

商の語義(2)


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 《課題》日本文明は中国文化の分派にあらず
     ―神のいる国の情義と神無き国の野蛮―

 ≪商の語義≫

 ショウ(シャウ) はかる たまう あきなう

 「会意」辛(しん)+内+口

 辛は把手のある大きな辛器で入墨に用いるもの。

 刑罰権を示す。

 内はこれを樹てる台座の形。

 その前に、神に祈る祝詞の器(「凵+一」さい)をおく。

 神に「商はか」ることを原義とする字である。

 遹(つい)の従うところの矞と似ており、

 矞は台座の上に矛(ほこ)を立て、祝詞をそえた形。

 遹は神威を奉じて巡察遹正(いつせい)を加えることをいう。

 商は殷王朝の正号。

 その都を卜辞に「大巴商」という。

 〔説文〕に「外よりして内を知るなり」という。

 すなわち商搉すること、推測の意とするが、

 神意を問うことを原義とする。

 商は古くは賞の意に用い、商の下に貝を加えた。

 (商+貝)はその略字であろう。

 賞は報償として与えられることが多く、また償の意となる。

 商をその義に用い、ついに商賣の意となる。

 商賣の意は最も後起の義である。

 ①はかる、神にはかる。

 ②賞の初文で、たまう、ほめる。

 ③あきなう、あきうど。

 ④除法、割算の答え。

 ⑤五音の一で、秋に配する。

 「古訓」

 〔和名抄〕商、商賣、師説、阿岐比斗(あきひと)

 〔名義抄〕商、アキヒト・ハカル・アキナフ・アキ

 「声系」

 〔説文〕に商声として商の下(商+貝)を収め、商の省声とする。

  金文の賞は商の下に貝(商+貝)を加えた字形である。

 「語形」

  商・(商+貝) sjiang は同声。

 〔説文〕に(商+貝)を「行賣なり」と商賣の意とする。

 「参考」

  商は殷王朝が滅んだのち、

  その民が離散して商賣となったする説があるが、

  商は殷の大号。

  もし蔑称とするならば、殷を用いるはずである。

  商は賞の初文。

  有償の行為が商賣となったとみるべきせあろう。

 ≪商の語義≫

 ショウ(シャウ) はかる たまう あきなう

 篆文、古文、籒文、甲骨文、金文

 「会意」辛(しん)と内と口に従う。

 辛は把手(とつて)のある大きな針器。

 入墨に用いるもので、刑罰権を示す。

 内の台座の形。

 口は(「凵+一」さい)で、祝祷(しゅくとう)を収める器の形。

 台座の上に辛を樹(た)て、その前に(「凵+一」さい)をおいて祈り、

 神意を問う意であるから、商(はかる)ことを原義とする。

 古代王朝としての商は、殷の正号で、

 その都は大邑商(だいゆうしょう)といった。

 商はその神政的な支配を示す国号であったと思われる。

 周が方形の彫盾(ちょうじゅん)に祝祷を加え、

 その支配権を示す字形であるのと同じ。

 〔説文〕に「外よりして内を知るなり」、すなわち商搉(しょうかく)、

 推測する意とするのは、字形解釈を誤る。

 上部の辛を章の省文として明らかの意、下の「内+口」(とつ)

 に内の意があるとするものであるが、

 卜文・金文の字形は、辛とその台座の形とを主とし、

 「内+口」形に従うものではない。

 商に商業・商賈(しょうこ)の意があるのは、亡殷の余裔(よえい)が、

 国亡(ほろ)んでのち行商に従ったからであるとする説もあるが、

 商には賞の意があり、

 代償・償讀(しょうとく)のために賞が行われるようになり、

 のちしのことが形式化して、

 商行為を意味するものとなったものと思われる。

 金文の〔「爫+口」鼎(こつてい)〕に、賠償の字に賞を用いており、

 商は神意をはかることを原義とし、

 そこから賞閲・商量の意が生まれ、

 のち賞・償の意より商賈・通商の意となったものであろう。

 賞賜に用いる字は、商の下に貝を加えた「商+貝」(しょう)が本字である。

 ≪参考≫

 商 - ウィクショナリー日本語版 - Wiktionary

 

 「商」へリンクしているページ

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  

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2014年11月15日土曜日

商の語義(1)


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 《参考:年表・資料》

 《課題》日本文明は中国文化の分派にあらず
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 ≪商の語義≫
 
 【商】3803 シャウ 〔集韻〕尸羊切 尸尢 shangi¹ 陽

    篆小、文古、文籒


 ①はかる。

  外から内を知る。明かにする。

 〔説文〕商、従外知内也、从冏章聲。

 〔廣雅、釋詁一〕商、度也。〔益、兌〕九四、商兌未寧。

 〔注〕商、商量裁制之謂也。〔釋〕商、量也。

 〔漢書、趙充國傳〕虜必商軍進退稍引去。〔注〕師古曰、商、計度也。


 ②數へだか。

 〔菅子、海王〕禺筴之商、日二百萬。〔注〕商、計也。


 ③きざみ。

  水時計の刻。〔集韻〕商、曰、刻也。

 〔正字通〕商、及漏箭所刻之處。

 〔儀禮、士昏禮第二、疏〕鄭云日入三商者、商、謂商量是漏刻之名。

 
 ④あきなふ。あきなひ。あきうど。

  店を定めないで、行く行くあきなふ者。

  一説に、定まった店に居てあきなふ者。

  今は兩者に通じ用ひる。

  賣(10-36808)に通ず。〔説文通訓定聲〕商、叚借爲賣。

 〔易、復〕商旅不行。〔釋文〕資貨而行曰商。

 〔周禮、天官、大宰〕六曰、商賈阜通貨賄。〔注〕行曰商、處曰賈。

 〔白虎通、商賈〕商之爲言、章也、章其遠近、計其有無、通四方之物。

 〔張衡、西京賦〕商賈百族。〔注〕綜曰、坐者爲商。行者爲賈。


 ⑤あきらか。

 〔漢書、律歴志〕商之爲言、章也、物成就、可章度也。


 ⑥五音の一つ。

  強く淸くさえて聞こえる音。

  四時では秋、五行では金、方位では西に属する。

 〔玉篇〕商、五音金音也。〔呂覧、孟秋〕其音商。

 〔注〕商、金也、位在四方。〔素問、陰陽應象大論〕在音爲商。

 〔注〕商、謂金聲、輕而勁也。〔白虎通、禮樂〕商者、張也。陰氣開帳。

 〔風俗通、聲音〕謹按、劉歆鐘律書、商者、章也、物成熟可章度也、

  五行爲金、五常爲義、五事爲言、凡歸爲臣。


 ⑦秋風。清風。

 〔楚辭、東方朔、七諫、沈江〕商風肅而害生兮。〔注〕商風、西風。

 〔潘岳、悼亡詩〕淸商應秋至。〔注〕善曰、秋風爲商。


 ⑧星の名。
 
  東方の星。心宿。辰星。大火星。〔左氏、昭、元〕辰爲商星。

 〔疏〕襄九年傳云、閼伯居商丘祀大火相土因之、故商主大火、辰即大火星也。


 ⑨つね。

 〔廣雅、釋詁一〕商、常也。


 ⑩くだる。

 〔廣韻〕商、隆也。


 ⑪「言+商」 (10-35867)に通ず。

 〔荀子、儒效〕「言+商」徳而定次。〔注〕「言+商」、興商同。


 ⑫除法を用ひて得る結果。

  商除(176')を見よ。


 〔算法統宗、少廣章、開平方法認歌〕商一歩、積一歩、商一百歩、積一百歩。
 

 ⑬諡。

 〔逸周書、諡法解〕昭、功寧民曰商。

 
 ⑭古は(2-4640)、(2-4314)、(2-4536)、(2-4413)、

    (2-4568)、(10-36808)、(2-4118)に作る・

  上記は漢字変換できず省略。

  
 〔集韻〕商、(2-4640)・(2-4314)・(2-4536)

     ・(2-4413)・(2-4568)。

 〔字彙補〕(10-36808)、古文商字。

 〔康煕字典〕(2-4118)、玉篇、古文商字。〔集韻〕商籒作(2-4640)



 ⑮國名。

  ㋑帝嚳の子、契の封ぜられた國。今の陝西省商縣。

   〔水經、丹水注〕契始封商、殷商之名、起于此矣。

 
  ㋺春秋、宋の一稱。周が商(⑯を見よ)を滅ぼし、

   商の子孫微子を故郷の河南省商丘縣に封じて國を宋と號せしめたが、

   之をも一に商と呼ぶ。

   〔國語、呉語〕爲深溝於商魯之閒。〔注〕商、宋也。


 ⑯朝代の名。

  成湯が夏に代って天下を有し、亳に都して國を商と號した。

  今の河南省商丘縣の西南。

  後、仲丁は囂(又、嗷に作る)、河亶甲は桐に、

  祖乙は耿(又、邗に作る。音同じ)に遷り、黄河・長江兩流域の各省と

  遼寧省の西部とを領有した。

  盤庚がまた遷つて亳に都し、國號を殷と改めたので、

  兼ねて殷商といふ。
  
  武乙はまた朝歌に遷都す。

  湯から紂に至るまで凡そ五度興り、五度衰へ、

  二十八世六百四十四年で周の武王に滅ぼされた。

  (B.C.1154)殷(6-16627)を見よ。


 ⑰姓。

 〔通志、氏族略、以國爲氏〕

  商氏、子姓、商本上雒、今之商州也、云々、

  舜命契爲司徒封爲商、云々、

  子孫以國爲氏、魯有商瞿、仲尼弟子、又秦有衞、本衞公子也、封爲商君、

  子孫亦以商氏爲、商氏有二、成湯之後爲商、衞鞅封爲商君、其後亦爲商。

 「名乗」アキ。ヒサ。

 「解字」會意。

  冏(言の省形)と内との合字。

  内に在るものを外からはかり知る意。

  一説、形聲。

  冏(どもりで言葉が出でなやんで内に在る意)と

  六(章の省形)との合字。

  冏は内に在るものを外からはかり知る意を表はし、
 
  六は音を表はすといふ。

 〔説文通訓定聲〕

  商、従外知内也、从冏章省聲、按、此字疑从言省从内、會意。

  ▽?(金文)會意形聲。

  冏と章省の合字で、章は亦聲。

  冏は高殿、章は辛を含んで、刑罰權を示す。

  司法権を持つ高殿の所在地、殷の都の名。

  殷滅亡後、遺民が行商に従事し、あきなひの意となる。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

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 ハラフ期の土器について
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