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《考古学&古代史の諸問題》
《参考:年表・資料》
《課題》日本文明は中国文化の分派にあらず
―神のいる国の情義と神無き国の野蛮―
司馬遷の『史記』(卷二十八封禪書 第六)
虞舜から西周まで②
それから八代で帝太戊(たいぼ)の世になると、
宮廷に桑と楮(こうぞ)の木が生えて、
その日の夕べにはもうひとかかえにもなるという
不思議なことが興って、〔太戊〕恐れた。
〔宰相の〕太戊「妖気は徳に勝ちはいたしません」と言い、
太戊が徳を修めたところ、桑も楮も枯れてしまった。
〔はじめ〕太戊は〔このできごとを〕巫咸(ふかん)に告げたのであるが、
太戊(みこ)が勢いを持つようになったのは、
このこともあって始まる。
そののち十四代で、帝武丁(ぶてい)が傳説(ふえつ)〔という名臣〕を得て
宰相にしたので、殷の勢いは再び盛んになり、高宗と呼ばれた。
雉が鼎の耳に上って鳴いたことがある、武丁が恐れたところ、
祖己(そき)〔という賢臣〕が、
「徳を修めてください!」と申し上げ、
武丁がその薦めに従ったので、その位は末永く安らかであった。
その後五代で、帝武乙(ぶいつ)は神を侮って(天を射た)、
雷に撃たれて死に、その後三代で、帝紐(ちゅう)は淫乱の振る舞いをし、
〔周の〕武王が討伐した。
これをもとに考えてみれば、
初めのうちはかしこみ慎しまないものとてはないのに、
後には次第に怠り侮るようになるものである。
周官には次の様にいう。
「冬に日の影が最も長くなったとき〔冬至の日〕、
天を南郊に祀り、永い日の訪れを迎える
(冬至が済むと日が長くなる)。
夏に日の影が最も短くなったとき(夏至の日)、地の神を祀る。
いずれの場合にも楽舞を用いる。
神には、このようにしてこそ礼を行うことができる」
天子は天下の名山大川を祀る。
五嶽〔をまつる〕には、〔その犠牲や祭器の数を〕
三公(太師・太傳・太保)になぞらえ、
四瀆〔をまつる〕には、諸侯になぞらえる。
諸侯は自分の境域内の名山大川を祀る。
四瀆とは江・河・淮・済である。
〔まつりをする宮殿は〕天子の場合明堂もしくは辟雍(へきよう)と呼び、
諸侯の場合には泮宮(はんきゅう)と呼ぶ。
ところで周公が成王のまつりごとを援けることになると、
〔周の祖先の〕后稷(こうしょく)に対して
郊(こう)のまつりをして天に配し、
明堂で文王をおまつりして上帝(天のことをいいかえただけに配した。
禹が勢いを得て社(土地の神)のまつりを整えた頃から、
后稷が穀物の植付け、取入れをしたので、
稷(五穀の神)のまつりが始まっていたわけで、
郊のまつりの由来は、遠い昔にあるのだ。
≪メモ≫
『史記』(卷二十八封禪書 第六)
封禪
泮宮
泮 ban(wen) 江・長江=江水/岷江
ming 岷 min
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
(アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている)
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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