2014年12月31日水曜日

封禅書(9)


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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

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 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦


 《課題》日本文明は中国文化の分派にあらず
     ―神のいる国の情義と神無き国の野蛮―

 司馬遷の『史記』(卷二十八封禪書 第六)

 秦⑥

 〔太史の像〕

 また四十八年後、周の太史の儋(たん)が、秦の献公にまみえて、

 「秦ははじめ周と合わさっていました。

  合わさっていてから離れました。

  今から五百年して、きっともう、一度合わさります。

  合わさってから十七年(?七十年たちましたから覇王がでます」

 と言った。

 〔そのころ〕櫟陽(陝西省臨潼県の東北)に黄金の雨が降った。

 秦の献公は金徳の瑞祥を得たものと自ら判断したものだから、

 櫟陽に、畦時けいじ(韮を種えた畝のような形の祭壇)を作って、

 白帝(金徳は白色)祀った。

 〔周の九鼎〕

 その後、120年(111年?)で、秦は周を亡ぼし、

 周にあった九つの鼎は秦の手に入った。

 最も、ある人の説では、宋(殷の子孫の国)の太丘(宋の国の地名)の

 社(木を植えてしるしにしただけの土地神を祀るやしろ)が亡んだ時に、

 鼎は泗水の彭城(江蘇省・銅山県)あたりの水底に沈んだのだともいう。

 〔水徳の秦〕

 その後(太史像のはなしから)115年後になって、

 秦が天下を併合した。

 秦の始皇は天下を併合すると帝(てい)と称した。

 〔その時〕ある人がこんな事を言った。

 「黄帝は土の徳を身につけていたので、

  黄竜(黄色は地の色とされる)や

  地螾(みみず。おそろしく太く長かった言う)が現れました。

  夏は木の徳を具えていたので、〔天から降りて来た〕青竜が

  郊外に留まり、草木が枝を伸ばしてよく茂りました。

  殷は金の徳を具えていたので、銀が山から溢れ出ました。

  周は火の徳を具えていたので、

  赤い鳥という瑞祥が現れたのでした。

  ところでいま秦は周にとってかわったのでして、

  水の徳の時なのです。

  昔秦の文公が薪刈に出て、黒竜を仕留められたと申しますが、
  
  それこそ水徳の目出度いしるしだったのです」


  そこで秦は、河(か)を徳水と命名し、

 冬10月を1年のはじめの月とし、色は黒を尊び、

 もののはかり方は六をきりめとし、音は大呂を尊び、

 天下を統べるには法を尊んだ。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
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2014年12月11日木曜日

封禅書(8)


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 《課題》日本文明は中国文化の分派にあらず
     ―神のいる国の情義と神無き国の野蛮―

 司馬遷の『史記』(卷二十八封禪書 第六)

 秦⑤

 〔萇弘、狸首を射る〕

 その頃萇弘は方術によって周の霊王につかえたが、

 諸侯には周に来朝するものがなく、周の国力は全く無くなっていた。

 萇弘は鬼人のことに通じていたから、狸の首を的にして射かけた。

 〔狸は別に不来とも呼ばれるから〕狸の首は

 来朝しない諸侯に象ったものである。

 このように夭術に頼って諸侯を呼び寄せようとしたが、

 諸侯は従わず、晋の国の人が萇弘を捕らえて殺してしまった。

 周の人手、物の怪のことを言ったのは、この萇弘が最初である。


 〔上畤・下畤〕

 それから百年余り後に、秦の霊公は呉山の南に、

 上畤:じょうじ(かみての祭壇)を作って黄帝を祀り、

 下畤:かじ(しもての祭壇)を作って炎帝を祀った。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  

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封禅書(7)


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 司馬遷の『史記』(卷二十八封禪書 第六)

 秦④

 〔孔子は語らず〕

 それから百年以上も後のことになるが、
 
 孔子が六芸:りくげい(易・書・詩・礼・楽・春秋の六経のこと)

 の意味を述べた。

 その解説の中に、姓を易(か)えて(前王朝を倒して)王となり、

 泰山で封のまつりをし、梁父山で禅のまつりをした

 七十人に余る王について、あらましを述べていながら、

 その時俎豆(そとう)の礼については明らかにしていない。

 それはおそらく言うことをはばかってであろう。

 〔なぜなら〕ある人が禘:てい(王者が始祖を祀るとき天帝を配祀する礼)

 についての詳細をたずねたところ、

 孔子は、

 「知りません! もし禘についての詳細を知っているなら、

  そういう人が天下のことをした場合、

  自分の手のひらの中のものを指し示すようなものだ」

 と言っており(論語の八佾篇にみえる)、

 〔また〕紐が位にある限り、文王は天命を受けても、

 まつりごとは泰山まで及ぼさず、

 武王は殷に勝って二年目め、

 天下がまだ安定しないうちに崩じてしまったことであり、

 詩に『いまし周の徳あまねし、これぞ成王!』というから、

 成王が封禅をしたのは、まず道理に近かったのであるが、

 〔周も〕晩年になると、陪臣がまつりごとをとり、

 季氏(魯の国の大夫の季孫氏)は泰山で旅(りょ)

 (山祭り。諸侯が自分の領土内の山川を祀るまつり)のまつりをしたので、

 
 仲尼はこれをそしっている(論語の八佾篇にみえる)。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
 


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封禅書(6)


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 司馬遷の『史記』(卷二十八封禪書 第六)

 秦③

 〔その後の繆公〕

 この年、秦の繆公は、晋の君の夷吾(献公の子、梁に逃げ出していた)を

 〔晋の国に〕入れ(これが晋の恵公)、その後〔再び、都合〕三度

 晋国の君を立てて(恵公の後懐公と文公)、晋の乱を平らげた。

 繆公は即位してから三十九年で亡くなった。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  

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2014年12月8日月曜日

封禅書(5)


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 司馬遷の『史記』(卷二十八封禪書 第六)

 秦②

 〔管仲、封禅を説く〕

 この秦の繆公が位について9年めのこと、

 斉の桓公は既に覇をとなえていて、

 諸侯を葵丘(斉の土地、山東省臨淄県の西)に会合させたが、

 さらに封禅を行おうとした。

 その時、管仲が言った。

 「むかし、泰山(山東省秦安県の北5里)で封のまつりをし、

  梁父山(秦安県の南110里)で禅のまつりをした

  王は72家でございますが、私が記憶しておりますのは12家です。

  むかし無懐氏は泰山で封のまつりをし、

  云々山で禅のまつりをしました」。

 神農は泰山で封のまつりをし、云々山で禅のまつりをしました。

 炎帝は泰山で封のまつりをし、云々山で禅のまつりをしました。

 黄帝は泰山で封のまつりをし、

 亭々山(秦安県の南50里)で禅のまつりをしました。

 顓頊は泰山で封のまつりをし、云々山で禅のまつりをしました。

 帝俈は泰山で封のまつりをし、云々山で禅のまつりをしました。

 堯は泰山で封のまつりをし、云々山で禅のまつりをしました。

 舜は泰山で封のまつりをし、云々山で禅のまつりをしました。
 
 禹は泰山で封のまつりをし、

 会稽山(浙江省会稽県の東南13里)で禅のまつりをしました。

 湯は泰山で封のまつりをし、云々山で禅のまつりをしました。

 周の成王は封のまつりをし、

 社首山(浙江省秦安県の西南2里)で禅のまつりをしました。

 これらはみな天命をうけて、その後に封禅をすることができたのです」

  すると桓公が言った。

 「私は、北方は山戒(鮮卑)を討って

  孤竹国(河北省盧竜県から熱河の朝陽県に至る一帯の地)」を過ぎ、

  西方は大夏(大宛の西南2000余里。大宛伝にみえる)を討って

  砂漠を渡った。

  馬を縛って引き上げたり、車を綱で吊り上げたりなどして、

  険阻な山に登り、

  南方を討っては召陵(故城の位置は河南省郾城県の東35里)まで行き、

  熊耳山(河南省盧氏県の南)に登って江(揚子江)・漢(漢水)を見渡した。

  兵車で行った会盟(戦争の時)が3回、

  乗用車で行った会盟(平和の時)が6回、(さきにみえた葵丘の会等その一つ)

  都合9回、諸侯を会合して、おしなべて転化を正し、諸侯にはたれひとり、

  この私に逆らうものはない。

  むかし、天命を受けた3代の君とて、これとどこがちがうのであろうか?」

  かくて管仲は、ことばでは桓公を追い詰めることができないと見てとった。

 そこで〔とても手に入らない〕ものをならべたてることにして、

 こう言った。

 「むかしの封禅には、

  鄗上に産する黍(もちきび)と北里に産する禾(いね)とが

  盛りものにするもので、

  江・淮のあたりに産する一本に三つのすじのある

  茅(ちがや)が敷物を作る材料でした。

  東の海から比目の魚を取り寄せ、西の海から比翼の鳥を取り寄せました。

  するとそのあとから、

  呼び寄せるまでもなく自然に到来した瑞祥が15もありました。

  ところが今は、鳳凰も麒麟も来ず、目出度い穀物も生えぬばかりか、

  蓬(よもぎ)だの、藜(あかざ)・蛇草(はぐさ)だのが生い茂り、

  梟(ふくろう)などが幾たびもやって来ております。

  それのなのに封禅を行おうとされるのは、

  もしや許されないことではありますまいか?」

  こう言われて桓公はやっと思い留まったのであった。

《参考》

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