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『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
《課題》日本文明は中国文化の分派にあらず
―神のいる国の情義と神無き国の野蛮―
司馬遷の『史記』(卷二十八封禪書 第六)
秦⑥
〔太史の像〕
また四十八年後、周の太史の儋(たん)が、秦の献公にまみえて、
「秦ははじめ周と合わさっていました。
合わさっていてから離れました。
今から五百年して、きっともう、一度合わさります。
合わさってから十七年(?七十年たちましたから覇王がでます」
と言った。
〔そのころ〕櫟陽(陝西省臨潼県の東北)に黄金の雨が降った。
秦の献公は金徳の瑞祥を得たものと自ら判断したものだから、
櫟陽に、畦時けいじ(韮を種えた畝のような形の祭壇)を作って、
白帝(金徳は白色)祀った。
〔周の九鼎〕
その後、120年(111年?)で、秦は周を亡ぼし、
周にあった九つの鼎は秦の手に入った。
最も、ある人の説では、宋(殷の子孫の国)の太丘(宋の国の地名)の
社(木を植えてしるしにしただけの土地神を祀るやしろ)が亡んだ時に、
鼎は泗水の彭城(江蘇省・銅山県)あたりの水底に沈んだのだともいう。
〔水徳の秦〕
その後(太史像のはなしから)115年後になって、
秦が天下を併合した。
秦の始皇は天下を併合すると帝(てい)と称した。
〔その時〕ある人がこんな事を言った。
「黄帝は土の徳を身につけていたので、
黄竜(黄色は地の色とされる)や
地螾(みみず。おそろしく太く長かった言う)が現れました。
夏は木の徳を具えていたので、〔天から降りて来た〕青竜が
郊外に留まり、草木が枝を伸ばしてよく茂りました。
殷は金の徳を具えていたので、銀が山から溢れ出ました。
周は火の徳を具えていたので、
赤い鳥という瑞祥が現れたのでした。
ところでいま秦は周にとってかわったのでして、
水の徳の時なのです。
昔秦の文公が薪刈に出て、黒竜を仕留められたと申しますが、
それこそ水徳の目出度いしるしだったのです」
そこで秦は、河(か)を徳水と命名し、
冬10月を1年のはじめの月とし、色は黒を尊び、
もののはかり方は六をきりめとし、音は大呂を尊び、
天下を統べるには法を尊んだ。
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
(アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている)
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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