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『My ブログ』
《考古学&古代史の諸問題》
《参考:年表・資料》
《課題》日本文明は中国文化の分派にあらず
―神のいる国の情義と神無き国の野蛮―
司馬遷の『史記』(卷二十八封禪書 第六)
秦②
〔管仲、封禅を説く〕
この秦の繆公が位について9年めのこと、
斉の桓公は既に覇をとなえていて、
諸侯を葵丘(斉の土地、山東省臨淄県の西)に会合させたが、
さらに封禅を行おうとした。
その時、管仲が言った。
「むかし、泰山(山東省秦安県の北5里)で封のまつりをし、
梁父山(秦安県の南110里)で禅のまつりをした
王は72家でございますが、私が記憶しておりますのは12家です。
むかし無懐氏は泰山で封のまつりをし、
云々山で禅のまつりをしました」。
神農は泰山で封のまつりをし、云々山で禅のまつりをしました。
炎帝は泰山で封のまつりをし、云々山で禅のまつりをしました。
黄帝は泰山で封のまつりをし、
亭々山(秦安県の南50里)で禅のまつりをしました。
顓頊は泰山で封のまつりをし、云々山で禅のまつりをしました。
帝俈は泰山で封のまつりをし、云々山で禅のまつりをしました。
堯は泰山で封のまつりをし、云々山で禅のまつりをしました。
舜は泰山で封のまつりをし、云々山で禅のまつりをしました。
禹は泰山で封のまつりをし、
会稽山(浙江省会稽県の東南13里)で禅のまつりをしました。
湯は泰山で封のまつりをし、云々山で禅のまつりをしました。
周の成王は封のまつりをし、
社首山(浙江省秦安県の西南2里)で禅のまつりをしました。
これらはみな天命をうけて、その後に封禅をすることができたのです」
すると桓公が言った。
「私は、北方は山戒(鮮卑)を討って
孤竹国(河北省盧竜県から熱河の朝陽県に至る一帯の地)」を過ぎ、
西方は大夏(大宛の西南2000余里。大宛伝にみえる)を討って
砂漠を渡った。
馬を縛って引き上げたり、車を綱で吊り上げたりなどして、
険阻な山に登り、
南方を討っては召陵(故城の位置は河南省郾城県の東35里)まで行き、
熊耳山(河南省盧氏県の南)に登って江(揚子江)・漢(漢水)を見渡した。
兵車で行った会盟(戦争の時)が3回、
乗用車で行った会盟(平和の時)が6回、(さきにみえた葵丘の会等その一つ)
都合9回、諸侯を会合して、おしなべて転化を正し、諸侯にはたれひとり、
この私に逆らうものはない。
むかし、天命を受けた3代の君とて、これとどこがちがうのであろうか?」
かくて管仲は、ことばでは桓公を追い詰めることができないと見てとった。
そこで〔とても手に入らない〕ものをならべたてることにして、
こう言った。
「むかしの封禅には、
鄗上に産する黍(もちきび)と北里に産する禾(いね)とが
盛りものにするもので、
江・淮のあたりに産する一本に三つのすじのある
茅(ちがや)が敷物を作る材料でした。
東の海から比目の魚を取り寄せ、西の海から比翼の鳥を取り寄せました。
するとそのあとから、
呼び寄せるまでもなく自然に到来した瑞祥が15もありました。
ところが今は、鳳凰も麒麟も来ず、目出度い穀物も生えぬばかりか、
蓬(よもぎ)だの、藜(あかざ)・蛇草(はぐさ)だのが生い茂り、
梟(ふくろう)などが幾たびもやって来ております。
それのなのに封禅を行おうとされるのは、
もしや許されないことではありますまいか?」
こう言われて桓公はやっと思い留まったのであった。
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
(アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている)
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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