2014年4月26日土曜日

武蔵国の地名と旧約聖書(8)


 「古代史ブログ講座」開講にあたって
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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 出典:歴史学講座『創世』:歴史研究家「小嶋 秋彦」

 課題:武蔵国の地名と旧約聖書
    ―荒川・入間・幸手などの隠された真義―

 埼玉県・幕屋(7) 新座:飯能・日高・入間

 野々宮(日高市)地名は当地の鎮守の野々宮神社による。

  当社は天文16年(1547年)11月18日付けの

  「六所宮祭事ニ付参集覚」を所蔵する。

  野々宮村[近世]江戸期~明治22年の村名。

  野々宮神社 楡木(にれき)・猿田・新堀・栗坪など各村の鎮守。

 猿田:えんだ(日高市)「さるた」ともいう。

  [近世]猿田村 江戸期~明治22年の村名。

 楡木:にれぎ(日高市)「にれのき」(役帳・田圃簿)。

  「ねれぎ」(新編武蔵)ともいう。

  地名の由来は「新編武蔵」に

  「村内に旧家と称する農民四五軒あり。

  それが家にある楡木はその類他になきものして


  村名もこれにより起りしと」とある。

  [中世]にれの木、戦国期にみえる地名。

 名栗郷:なぐりごう

  [中世]鎌倉期からみえる郷名。那栗郡とも書く。秩父郡のうち。

  地名の由来は「新編武蔵」で栗の名産地だったことにするが、

  一説にはナグリの「クリ」には石ころ・岩、ひいてはガケの意味があり、

  名栗川沿岸のガケが注目されてその名を得たとする説もある

  (松尾俊郎:日本の地名)。ただ「ナ」をどう解するか。

  山城の殖栗のナグリ神社は双栗神社と書くのが注目される。

  また「ナグリ」とは入り込んだ谷間の意だという(地名誌・地名語源辞典)。

  初見は元享4年(1324年)10月日の

  秩父神社(現秩父市)造営料木注文に~。

 武蔵国(旧国名)律令体制によって設置された国。

  <角川日本地名大辞典「埼玉県」>

  「ムサシ」の語源は

  大化(元年645年)前代の「无邪志」(ムザシ、古事記、国造本紀)に

  由来するといわれ、「和名類聚抄」では「牟佐之」(ムサシ)と注し、

  ザがサに変じている。

  国名の由来は、

  ①漢字に基づくもの、②発音に基づくもの、③語意にに基づくもの

  の3説がある。

  ①は「武蔵」という漢字から説くもので、

   この文字は和銅6年(713年)の詔に依って付けられたものであるから

   根拠に乏しい。~

  ②は武蔵・相模はともに「牟佐」の国で、

   相模は「牟佐上」のムを略したもの、

   武蔵は「牟佐下」のモを略したものとする。

   「牟佐」の意義不明(古事記伝)。

   「御坂上」が相模、「御坂下」を武蔵とする(内山真竜:国名考)。

   駿河・相模・武蔵の地を弟橘比売命の歌から「佐斯」を総称するとし、

   それが2つに分かれ「佐斯上」のシを省き相模。

   武蔵は「身佐斯」で、

   身は中に主のある処、佐斯国の真原を指す意(古事記伝)。

   「むさし」は、むねさし(胸刺)の転じたもの(倭訓栞)、

   武蔵野に茅、茨多く行人の身を刺すので「身刺」という(郡名同唱考)。

   武蔵野の「ムサクロシ」という土俗語より出るという(田中頼庸)。

   「ムサ」は俘囚を呼ぶ古語で、俘囚を置いたところから

   その国を上・下に分け「ムサ下」から出る意(類聚名物考)。

  ③は城の古訓「佐之」より古来馬を出していた武蔵から

   「馬城」の義とする(栗田寛)。

   「牟佐志美」の略で

   「牟佐」は草、「志美」は繁で、草木繁り禽獣の住む所の意(武蔵志料)。

   武蔵は隣国6国境を差し合っているので「六差」とする(武蔵志料)。

   「さし」は道路で、

   この国は諸州の人の街道であるから「六さし」とする(温故随筆)。

   上総・下総・安房など武蔵・相模も古くは「総」の国と呼び、

   「ふさしも」から転じたとする(陸略記)等。

   国名の初見は神功皇后紀47年7月条、
  
   正しくは天武13年5月甲子条である。

 ※「武蔵」"ムソウ",מָסהָָֻה,MVshVH,moshouoh "ムソウ木" 植民地、村

  ◎つまり「无邪志」は「武蔵」と改称し、

   高麗(呉)人[イスラエル人]の植民地[居留地]となったのである。

2014年4月24日木曜日

武蔵国の地名と旧約聖書(7)


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 出典:歴史学講座『創世』:歴史研究家「小嶋 秋彦」

 課題:武蔵国の地名と旧約聖書
    ―荒川・入間・幸手などの隠された真義―

 埼玉県・幕屋(6) 新座:飯能・日高・入間

 飯能(飯能市)入間川沿いに位置する。

  地名の由来は武蔵七党丹党「判乃氏」が居住したことによるという。

  [近世]飯能村。江戸期~明治15年の村名。高麗郡のうち。

     古くは加治郡加治荘加治領に属したという。

 芦刈場(飯能市)芦苅庭・芦苅場とも書く。芦苅場村は戦国期にみえる郷村名。

 阿須(飯能市)安須とも書く(田園簿)。

  地名の「アズ」は「油」で、崖のくずれたところを意味し、

  「新編武蔵」に

   「村の東、仏子村境にあり、古は阿須山とて連綿せしむ山なりしが、

   入間川洪水の時、山崩れしよりかく数十丈の崖となりし云」とあるから、

  この崩崖に地名は由来するという(地名誌)。

 落合(飯能市)地名の由来は川の合流点をあらわす。

 上赤工(かみあかたくみ)(飯能市)

  もとは赤内匠村であったが、元禄年間頃、上赤工・下赤工の2ヶ村に分村。

 加治郷(飯能市)

  [中世]鎌倉期にみえる郷名。高麗郡のうち。

  [近世]「新編武蔵」にみえる郷名。

 永田(ながた)(飯能市)長田とも書く。

  当地には平安期から武蔵七党丹党「長田氏」が居住していたと伝える(旧県史)。

  [中世]戦国期にみえる郷村名(長田村)。

 川寺(飯能市) 

  村名の「かわでら」は「川平」で

  入間川に臨む平垣地区に由来するという(地名誌)。

 苅生:かろう(飯能市)「かりう」ともいう。

  地名は焼畑一切替畑の意である。(民族辞典)といい。

  因幡で野山の開墾地を「かりょうばた」ともいい。

  苅生の文字を当てており、

  苅生は鎌の作業を主として呼ぶらしい

  (開拓と地名)ともいわれている(地名誌)。

  [近世]苅生村 江戸期~明治22年の村名。

 日高:ひだか市(町)昭和30年

    日高町、高麗川村・高麗村の2ヶ村が合併して成立。

 鹿山:かやま(日高市)賀山とも書く(役帳)。

  地名の由来は明らかでないが「かのやま」の転と思われ、

  「かの」とは焼畑・切替畑の意である(地名誌)。

  [中世]賀山村 戦国期にみえる郷村名。高麗郡のうち。
 
 田木:たぎ(日高町)

  地名は方言「たき」から起ったとみられ、
 
  山、山腹の急傾斜地、崖の意である(地名誌)。

  [近世]田木村、江戸期~明治22年の村名。

 台(日高町)地名は台地上に位置することによる(新編武蔵)。
   
  [近世]台村、江戸期~明治22年の村名。古くは高麗郡に属したという。

 高麗郡 武蔵国の郡名。

  初見は「続日本紀」。

  武蔵国のほぼ中央に位置し、~。

  郡名の由来は、高麗人を移して新たに郡を設置したことによる。
 
  [古代]武蔵国分寺献進瓦に「高」の字がみえるが、

  文献上の初見は「続日本紀」霊亀2年(716年)5月条に

  「以駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、

   下野七国高麗人千七百九十九人、遷于武蔵国、始置高麗郡焉」とある記事。

   ※高麗=呉=イスラエル人 相模(高座) 上総(坂戸)

  また同書延暦8年(789年)10月条に

  「散位従三位高倉朝臣福信薨、福信武蔵国高麗人也。

   本姓背奈、其祖福徳属唐将李勩抜平壌城、来帰国家居武蔵焉。

   福信即福徳の孫也」とある。

  「延喜式」神名帳には郡内の神社の記載はない。

  「和名類聚抄」では「古末」と訓じ、高麗・上総の2郷が挙げられ、小郡。

  郡衙の所在地は高麗郷(現在の入間郡日高町高麗本郷)で、

  高麗王若光の子孫が郡司であったと考えられる。

  [中世]高麗王若光の子孫は高麗氏と名乗り、

  若光を祀る高麗神社の宮司を代々継承するとともに、

  この地方の武士として勢力を持っていた。<高麗氏>

 高麗神社:入間郡日高町(現市)に鎮座。

  祭神、高麗王若光・猿田彦・武内宿禰。

  天武天皇(672~678)の時、

  朝鮮半島の戦乱を避けて一族とともに日本に渡来した高麗王若光は

  文武天皇の時従五位下に叙せられ、次いで大宝3年(718年)に王姓を賜った。

  霊亀2年

  駿河、甲斐、相模(高座)、上総(坂戸)、下総、常陸、下野の7ヵ国に

  居住していた高麗人(イスラエル人)1799人を武蔵国に移して高麗郡を置いたが、

  それを統一したのがこの高麗王若光であったと伝える。

  若光は郡中の繁栄を祈るため日頃崇敬していた

  猿田彦命を祭祀して1社を創立し、武内宿禰を配社として

  白鬚明神として崇敬した。

  天平2年(729年)若光が亡くなった時、家臣は霊廟を建て、

  高麗明神として崇め、やがて白鬚明神の合祀して高麗大明神と改称し、

  高麗郡の総鎮守となった。

  古くから出世開運の神として参詣者が多い。

2014年4月17日木曜日

武蔵国の地名と旧約聖書(6)


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 課題:武蔵国の地名と旧約聖書
    ―荒川・入間・幸手などの隠された真義―

 埼玉県・幕屋(5) 新座:飯能・日高・入間

 飯能・飯能市

  「ハンノウ」,כהַנינָה,KhNYNH,kh(ch)anynoh 赦免、赦し

   (モリア山でイサクが解放されたことをいう):判乃氏/(武蔵七党丹党)

  「ハニノイ」,כנִַנִיֶ,KNINY,knainiye カナンの、カナン人

              ,כנִַנ,KNIN,knain カナンの地

   ※主がモーセに約束した嗣業の地。乳と密のしたたる地

 芦苅場(あしかりば),זָר כהַלַו,AZVR,aezor khalav 「地-乳」:乳の地/カナン

  苅生(かりお),כהַלַו,KhLV,khalav 乳、母乳、牛乳

 多峰主山(飯能市飯能の山名)

  「タブス」,דֻוַסה,DVSh,duvash 蜂蜜、密、果汁

 中居(飯能市),נַכהַלַה,NKhLH,nakhalah 嗣業の地、譲り、遺産

 元加治・野田(入間市の飯能市に接する地区名)

       (Sk.)natha 領主、主

  猿田彦神社(飯能市岩沢、野田に接する界)

       ,סהַלִֻיתי,ShLYTy,shaluiyty 支配者、領主、君主

 加治(飯能市),כַתסִרי,KTsYR,katsiry 収穫、加治神社(中山)、下加治

 川寺(飯能市),כַוָתסִרי,KVTsRy,kavotsiry 収穫人 加治小学校

 阿須(飯能市),סֻֻפ,ASVF,asuuf 収穫

 矢久・橋(飯能市)入間川に掛かる南町と矢颪(やおろし)の間の橋
  ヤヌキ/征矢神社に係わる地名 矢颪-前ヶ貫
  ,יַנַכ,YNK,yanak 乳を吸う(養分を)吸収する。
    ,ינִיכַה,YNYKH,yniykah 乳を吸うこと、(養分の)吸収

 柳町(飯能市)YNK YNKH

 双柳(飯能市),הַתיַנַכ,HTYNK,hatyanak 
  乳を吸うようになる:食料が十分になる。生活が十分にできるよになる。

 名栗村(入間郡・飯能市の西隣り),נַכהַלַה,NKhLH,nakhalah 嗣業の地
 
 所(ところ)沢(市名),תָהר,THR,tohr 清浄、浄化、純粋さ、無垢
                        ,תַהַרַה,THRH,taharah (宗教上の)清さ、清浄

 竹間(ちくま)神社(三芳町竹間沢)
  ,תִהֻוֻר,THVR,tihuvur 浄化、清潔にすること、緑化、精練

 藤久保(ふじくぼ)(三芳町)「トウクボ」
  ,תָהוָר,THVR,tohvor きれいな、清潔な、純粋な、清浄な

 永井(北・三芳町)(南・所沢市)
  ,נַכִײ,NKY,nakiyy きれいな、清潔な、純粋な、潔白な

 中野(新座市・竹間沢の南隣り)
  ,נִכַֻיָנ,NKYVN,nikuayon 清潔、潔白

 滝の城址公園(所沢城)「タキ」
  ,תַהָר,THVR,tahor きれいな、清潔な、純粋な、清浄な

 清瀬(市・東京都)=所沢/清瀬は所沢の語義

 柳瀬(やなせ)(所沢市城<滝の城址公園・坂之下辺り>)
  柳:「ヤナギ」,יַנַכ,YNK,yanak 乳を吸う。
        ,ינִיכַה,YNYKH,yniykah 乳を吸うこと

 ※所沢以下の地名は「宗教上の清浄」 の語義で
  「神に対する従順」を表わしている。

 狭山(さやま)(丘陵・市名など)

  元狭山神社(東京都西多磨郡瑞穂町駒形富士山)

  狭山神社(東京都西多磨郡瑞穂町箱根ヶ崎)

 「狭」:"サ",סַיִf,SYF,sayif 剣、狭山=剣山:モリアの山 
        アブラハムが剣でイサクを屠殺しようとした。
    これが起源。しかしこれが「峰山」に代った。

  峰,סָיַ,SYA,soya 頂上、頂点、絶頂

 峰(狭山市狭山)地区内の字名。

  峰稲荷神社<狭山名は昭和42年以降の呼称>

  水富神社(狭山市根岸)"スイブ",סִַf,SYF,saif 剣

  広瀬神社(狭山市上広瀬)

   "ヒロセ",צהַרַסה,Kh(Ch)RSh,charash 鍛冶屋、技工、職人

 村山(東京都) mauli (青森県の"森")

 ※森=峰

2014年4月15日火曜日

武蔵国の地名と旧約聖書(5)


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 課題:武蔵国の地名と旧約聖書
    ―荒川・入間・幸手などの隠された真義―

 埼玉県・幕屋(4) 新座:飯能・日高・入間

 扇町屋(入間市)扇町谷とも書く。

  地名の由来は愛宕神社の神体が五本の骨の扇であるためとする(新編武蔵)。

  しかし、「愛宕神社縁起」では町の形が扇形であることによるとし、

  「さいたまの地名」は町の前途を祝す嘉名によるものとしている。

 鍵山(入間市)昭和41年~現在の町名。

  もとは武蔵町大字黒須・高倉の各一部

 春日(かすが)町(入間市)昭和41年~現在の町名。

  春日神社名に依る。もとは武蔵町大字黒須の一部。

  春日神社名に依る。

 上藤沢村(入間市)江戸期~現在の村名。入間郡山口領のうち。

  天保年間以降に藤沢村が上・下に分村して成立したと思われる。

 河原町(入間市)昭和41年~現在の町名。とは武蔵町大字黒須の一部。

 黒須(入間市)

  地名の由来は、一説には地内で入間川が大きく屈曲しているため、

  くるり(矢柵)あるいは、くるわ(曲輪、郭)などの半円形の屈曲を

  示す用語から派生したともいわれる(黒須地誌)。

  また「豊岡町史」では、畔の意であり、

  畔洲を黒須の文字にあてはめたものとしている。

  中世には黒須村と称したと思われる。

 小谷田(こやた)(入間市)

  字豊泉・柿の木・谷窪・森原からは

  国分寺瓦を焼成した登り窯と布目、瓦が発掘されている。

  地内には古墳後期の田端遺跡、縄文前・中期の森坂遺跡、

  縄文中・後期の坂東山遺跡などがある。

  特に坂東山遺跡からは、多くの住居址や遺物の他に、

  男子成人骨を入れた甕が発見された。

  また平安期の高倉御所と伝える跡や江戸期の五味屋敷跡がある。

 高倉(入間市)

  地名の由来は、一説には渡来人に因むもので、

  高倉は高麗(カクリ)ノ音を国語化して呼称したものといわれ(地名誌)、

  また一説には高倉御所があったことによるとし、

  小字に宮、小路、中小路、若宮、宮ノ下などあることを

  その名残とする(豊岡町史)。

 豊岡町(入間市)

  明治22年~昭和31年の町名~町名は

  住民票により町の将来を祝福する嘉名とした。

 狭山台(入間市)昭和27年~現在の大字名。

  はじめ元狭山村、昭和33年武蔵町。

  昭和41年からは入間市の現行大字。

 仏子(ぶし)(入間市)「ぶっし」ともいう。

  地名の「ブシ」は多く小平地岸段丘・谷頭・鈍頂の山にみられる

  地名でもあるともいわれ(日本の地名)、

  また仏師(歴史地理)あるいは武士(入間郡誌)が

  もとになったといわれる。

  前堀川沿いからは、

  アケノボゾウの化石や平安期以降の窯跡などが発掘されている。

 南峯(みなみみね)(入間市)

  地名の由来は、江戸期以来の峯村が

  高麗郡の峯村と同名であることから、

  これと区別するため南の一字を冠して改称(南峯村地誌)。

 狭山(狭山市)昭和42年~現在の町名。

  元は大字入間川の一部。

  峰稲荷神社。

 北入曽(狭山市)北入磯とも書く(新編武蔵)。

  北入曽村[近世]江戸期~明治22年の村名。

 南入曽(狭山市)江戸期~明治22年の村名。

  入間郡河越領のうち。

  古くは山田郡吾妻荘山口領に属したという。

 上広瀬(狭山市)江戸期~明治22年の村名。高麗郡のうち。

  古くは加治領霞郡。または春原荘広瀬郡。あるいは山田荘に属したという。

  元広瀬村のうちであったが、元禄年間に上・下に分村。

 下広瀬(狭山市)江戸期~明治22年の村名。高麗郡のうち。

  古くは加治領霞郡に属したという。

  元広瀬村のうちであったが、元禄年間に上・下に分村。

 柏原(かしわばら)(川越市・狭山市)

  地区内に縄文期~平安期の集落跡が多く発掘され、

  室町期の城郭である城山、別称上杉城がある。

  柏原は鎌倉期からみえる地名。

  室町期以降、当村では鋳物業が起こり、

  村内の剣明神社の文明元年(1469年)2月28日在銘の

  懸仏に「剣明神 柏原住人」~。


武蔵国の地名と旧約聖書(4)


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 課題:武蔵国の地名と旧約聖書
    ―荒川・入間・幸手などの隠された真義―

 埼玉県・幕屋(3) 新座:飯能・日高・入間

 新座(にいざ)郡 武蔵国の郡名。

  新羅郡が転化して新座郡になったとされる。

  新羅郡の初見は「続日本紀」、

  また新座郡の初見は「延喜式」。

  武蔵国の中央部ややひ東寄りの荒川(旧入間川)右岸に位置する。

 「古代」

  新羅郡の初見は「続日本紀」天平宝字2年(758年)8月条に

  「帰化 新羅僧卅二人。尼二人。男十九人。女廿一人。

   移武蔵国閑地。於是。始置新羅郡焉。」とある記事で、

  新羅人を武蔵国に移動されたのである。

  また同書宝亀11年(780年)5月条には、

  「武蔵国新羅郡人沙良、真熊等二人賜姓広岡造」

  という記事もある。

  しかし「延喜式」では新座と書かれており、

  その頃までにはすでに新羅郡から新座郡への名称の転化が

  行われていたものと思われる。

  「和名類聚抄」では新座は「爾比久良(にひくら)」と訓じられており、

  志木・余戸の二郷が挙げられ、

  小郡の郡衙の所在地は(現在の志木市志木付近)と推定される。

 〔中世〕

  ~宝徳3年(1451年)9月24日の年紀がある

  氷川神社(浦和市本太)の神輿の屋根裏に書かれた墨書銘に

  「にいくら大工二郎三郎かねみつ殿」とあり、

  新座(新坐)が「にいくら」と訓まれていたことが知られる。

  「にいくら」の訓みから新倉と書かれることもあり~、

  「にいくら」の訓みを「にいざ」に改めるのは、

  近世に至って享保2年(1802年)に

  郡名の唱を定めてからといわれている(新編武蔵)。

 志木郡(和光市)

 〔古代〕

  平安期からみえる郷名。新座郡のうち。

  「和名類聚抄」新座郡二郷の一つ。

  郷名の由来は、新座郡の中心であったことによる。

  本来は志楽(しらぎ)郡であったという。

  新座郡の古称である

  新羅(しらぎ)郡の「新羅」が「志楽」と転じて郷名となり、

  さらにその「楽」を草体に書いたため

  「木」に近似して誤りを招いたとする。

  高山寺本「和名類聚抄」の志未(シマ)(=敷島)郷も同様(地名辞書)。

  また志羅木あるいは志楽木を中略して志木になったともいう(新編武蔵)。

 宗岡(志木市)棟岡とも書く(役帳)。

  棟岡[中世]戦国期に見える地名。

  入東郡のうち。[近世]宗岡村、江戸期への明治22年の村名。

  入間郡 河越領のうち、古くは三芳野里仙波荘に属したという。

 川越(川越市)河越・河肥とも書く。

  地名の由来は入間川、荒川を越えることによるという説

  (甲子夜話、三芳野名勝図会/埼玉叢書1)、

  越は渡しの意で入間川の渡しがあったことによるという説(地名誌)、

  入間川の氾濫によって土地が肥えたことによる説

  (八代国治説)などの諸説がある。

  [中世]河越荘 鎌倉期からみえる荘園の名。

  河越:南北朝期からみえる地名。

  [近世]川越町江戸期~明治22年

  〇国分寺建立 741年(聖武天皇)

 入間郡 武蔵国の郡名。初見は「続日本紀」。

  [古代]武蔵国分寺献進瓦に「入」「入麻」などの字がみえるが、

  文献上の初見は「続日本紀」神護景雲2年(705年)7月条に

  「武蔵国入間郡正大位上勲五等物部直広成等六人、賜姓入間宿禰」

  とある記事。

  宝亀2年(771年)に入間郡の正倉4宇が焼け(天理図書館所蔵文書)、

  そのため同4年に入間郡司らが解任されている(寧遺上)。

 入間川(狭山市)鎌倉期からみえる地名。入間郡のうち。

  「吾妻鏡」元暦元年(1184年)4月26日によると

  「堀藤次親家郎従藤内光澄皈参。於入間河原誅志水冠者之由之云々」

  とあり、~。

 入間郷[近世]「新編武蔵」にみえる郷名。入間郡のうち。

  中世末期頃から用いられたと思われる。
  
  属した村々は、入間川・下奥富の2ヶ村。現在の狭山市辺り。

 新久(あらく)(入間市)

  地名の新久は新開墾地の意味であり(埼玉の地名)。   

  当地名も新田開発に因むものと思われる。

  地内には縄文中期の新久遺跡、縄文中期・古墳後期の大久保北遺跡、

  奈良期の八瀬窯跡・八坂前窯跡・東金子窯跡郡などがあり、

  数十ヶ所の窯跡とともに、布目瓦・須恵器などが多数発掘されている。

  瓦には父、玉、埼、豊などの郡名を示したものがあり、

  国分寺建立および改修のために焼成されたものという。

2014年4月9日水曜日

武蔵国の地名と旧約聖書(3)


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 埼玉県・幕屋(2) 新座:飯能・日高・入間

  新座(新座市の東北)

   館:たて(志木市の西北境界、新座の東隣り)

    「カン」,כַֻנ,KN,kuan 台、台座、支え
 
    「館之郷」(新編武蔵にみえる郷名)氷川神社と

     旧中野村(現新座市中野)の鎮守・兒大明神社」

    「新編武蔵」

    ※児大明神の「児」,כהַג,khag 祭

  針ヶ谷(富士見市の西南境界、館の北隣りの地区名)

   針ヶ「ハリケ」,,PRXT,proxet  PRX(Kh)T=KLH(飾り幕)

   ①トーラーの巻物を収めて箱にかける幕

   ②神殿の至聖所の幕

  水子(富士見市の南限 針ヶ谷の東隣りの地区名)

   水子,מִזבֶצה,MZBX(Kh),mizbech 祭壇

  三芳(みよし)町「ミツホウ」,מִתסוַה,MTsVH,mitsvah (神の)命令、戒律、掟

   ※志木市、新座市、富士見市、三芳町のこの一角に

    「幕屋祭」を行った。

    祭壇(台、棚)が備えられたのである。

   竹間(ちくま)沢,תִהוֻר,THYVR,tihvur

     「清潔にすること、浄化」の語義で「(ユダヤ教の律法)清い」という意味

    ※「新編武蔵風土記稿」巻之百卅二 新座郡之四 野方領

  館村 小名 引又町

   中野村西の方柳瀬川によりたる方なり、

   当所及び前の引又町は自ずから一村立つ地の如く里人は称すれど

   左にあらず、ともに当村中の小名なり。

   神社 兒大明神社 小名中野村にあり、

      社は二間四方、前に鳥居をたつ、鎮座の年代縁起等詳ならず、
  
      神體も何を祭るれることを知らず、石像にして猿にのり、

      手に巻物をとる状なり、其一尺ばかり、中野村の鎮守なり、

      村民持、末社 稲荷社 小祠なり。

      本社に向けて右にあり。

   古蹟 今八幡祠のある所館のありし所為りとぞ

      ―昔大石越後守ここに居れり、

      此人は小田原北条家の家人なりしが、

      天正十八年太閤秀吉の為に亡びしと―

  中野(新座市) 中野村「ナカノ」,,NKYVN,nikuayon 清潔、潔白

  引又町(館<村>)「ヒキマタ」,כהַגִֻימ,,khaguiym 祭、כהַג,,khag の複数形

  志木(市名)

   (Grk.)θηκη 箱(容器、棺、鞘など

   (Heb.),טYך,TYK, 箱、書類入れ

   (Lat.)thēca 箱、容器 「書(旧約聖書の巻物)の入った箱」

   敷島神社(志木市本町2丁目)

   敷:シキ(Grk.)θηκη 箱 

   島:しま(Grk.)θυμελη 祭壇・ 舞台、台

    「箱を乗せた祭壇/台」

  柏町(志木市の町名)"カシワ",כהַג הַַסִיf,HASYF,khag haasiyf 収穫祭

  「猿」(兒大明神社),סהַלִֻיתי,ShLTY,shaluiyty 支配者、領主、君主

   (島根県鹿島町佐太神社佐田大神)

   この地に領主が居たのである。

  「志末郷」和名類聚抄・高山寺本「シマ」

武蔵国の地名と旧約聖書(2)


 「古代史ブログ講座」開講にあたって
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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 出典:歴史学講座『創世』:歴史研究家「小嶋 秋彦」

 課題:武蔵国の地名と旧約聖書
    ―荒川・入間・幸手などの隠された真義―

 埼玉県・幕屋(1) 新座:飯能・日高・入間

 〇天武天皇(672年~678年) 

  朝鮮半島の戦乱を避けて高麗王「若光」が渡来。

  大宝三年(718年)王姓を賜った。

  若光<若子宿禰の後裔 זִכֻֻכ ,ZKVK,zikuuk 精練

                        זָהַר,ZHR,zohar(dgohar)光、輝き、きらめき

  「コマ」:高麗(こま) מַה,Kh(Ch),amah(-) 太陽、日 (Eng.)sunshine

  ◎現在 日高市と呼称されているのは「光輝」「太陽」を背景としている。

 〇入間郡 入間市、入間川

   「武蔵国入間郡~」:「続日本紀」神護景雲二年(705年)七月条

   武蔵国分寺献進瓦に「入」「入麻」、

   国分寺建立 聖武天皇の時 741年に勅命
 
  入間「イルマ」ֶלָהִימ,ALHYM,elohiym, ALH(ֶלָהִ)の複数形をとっているが単数扱い

   「唯一神、天地創造の神」と邦訳・解釈されている。

  入間野神社(狭山市南入曽):元「国井神社」:"クニイ"

               =,KNYIN,knain カナンの地

  野々宮神社(狭山市北入曽)「ののみや」←「ヤヤみや」

   יַיַ,YY,yaya,YHWH神の表記の一つ ADNY あるいhが AShM と読む。

  堀兼神社(狭山市堀兼)בֶר־כנִֶַני,BAR-KNYNY,ber-knaieny 「カナンの井戸」

  富士見(狭山市の現在北入曽の西隣りの町名)

  富士見台(狭山市堀兼の東部、堀兼の井がある。その西に富士見里)

   富士見:הַסהמ,HShM,hashm YHWH神の呼称「聖名」

  入曽(狭山市北入曽・南入曽、戦国期に入曽村)

   "イリソ"ֵרֻסַלֶמ,YRShLYM,Erusalem,(Eng.)Jesrusalem,

    現イスラエルの首都 ダビテが首都に定めた B.C.11C.

  入間川(狭山市の町名)、入間村(江戸時代の郷名)

  下原(狭山市北入曽の地内)

   "シタハラ"הר הזיתים,HR-HZYTYM,Har HaZeitim

    オリーブ山 イスラエルにある山名 エルサレム東郊にある丘陵。

 〇高麗郡「続日本紀」霊亀2年(716年)5月条

  「以駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野七国

   高麗人千七百九十九人、遷于武蔵国、始置高麗郡焉」

   高麗:これまで一般にこれを「高句麗」のことと

      解釈されてきたがそうではない。

      これはイスラエルのこと。

      גָֻלַה,GVLH,guolah ○離散したユダヤ人の居留地/

        ディアスポラ(祖国からの)追放、離散、捕囚「コウライ」

      כהִלַֻה,KHLH,khiluah ユダヤ人社会、共同体、会衆「クライ」

      ※高麗を「コマ」と呼称するのは上記「天武天皇」の項で明白。

   高麗神社(日高市新堀)祭神高麗王若光、猿田彦、武内宿禰

       〔猿田彦命:(本来)佐田彦命〕

 〇新羅郡『続日本紀』巻第36天平宝字2年(758年)8月条

  《天平宝字二年(七五八)八月癸亥
 
   帰化 新羅僧卅二人。尼二人。男十九人。女廿一人。

   移武蔵国閑地。於是。始置新羅郡焉。

  白子(和光市)"しらこ"「シラギ」遺称地

  ※ここは新座・郡の地ではない。

   北隣に「新倉」の地名が与えられているが、

   後人が史料から「新羅」が「新座」の交替したとして銘名で、

   実際は誤りである。

  〇新座郡(現)にいざ

   「延喜式」に「新座」

   「和名類聚抄」に「爾比久良(にひくら)」と訓まれている。

   "新座(にいくら)"は、「続日本紀」霊亀2年(716年)5月条

   「相模国」よりの高麗人が、新しく祭壇を築き祭儀を始めたことによる。
   
   「新しい高座」の意。

  ※相模国高座郡。(現)藤沢市高倉がその遺称地。

   土棚、長後(藤沢市の地名)などがそれに係わっている。

   <高座:綾瀬/神奈川県:幕屋>

   高座,טYך־ךLI,TYK-KLI,

    「箱-幕」幕屋の奥に備えられた祭壇(棚)に聖書を入れた箱が置かれ、

    それに飾りとして幕が掛けられ、箱を覆う。

   そこでは幕祭、収穫感謝祭が行われた。

   幕屋祭,ךהג־הַסֻֻכֻת,Khg-hasuukut

   収穫祭,ךהג־הַַסית,Khg-haasyt

 《Key Word・参考》
 幕屋祭
 幕屋祭

 オリーブ山

 『続日本紀』によると、716年(霊亀2年)、

 武蔵国に高麗郡が設置された際、東海道七ヶ国から

 移された1799人の高句麗人を移したという。

 According to "The Shoku Nihongi," 

 when the Koma County was established in Musashi Province in 716, 1799 
 
 Koguryo nationals who were brought over from the 7 Provinces of Tokaido Road were transferred to the Koma County.

2014年4月6日日曜日

武蔵国の地名と旧約聖書(1)


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 《参考:年表・資料》

 出典:歴史学講座『創世』:歴史研究家「小嶋 秋彦」

 課題:武蔵国の地名と旧約聖書
    ―荒川・入間・幸手などの隠された真義―

 1.武蔵〔ムソウ〕国の成立:无佐志〔ムサシ〕からの転換

 2.武蔵国諸郡の形成〔新座郡、入間郡、比企郡、大里郡、高麗郡〕
   ―元正天皇二[716]年条〔日本書紀〕:高麗郡

 3.新座郡〔相模国高座郡〕

 4.荒川と入間郡〔入間川・飯能:乳と密のしたたる地〕

 5.高麗郡〔高麗王若光〕:神奈川県大磯町の高来山と「コマ」「日高」

 6.所沢・清瀬〔水清き麗しの地:チクマ〕

 7.比企郡・大里郡〔泉と岩に係わる地名郡〕

 8.坂戸・鶴ヶ島・毛呂〔浅羽:アブラハム・イサクの長子御供伝承〕

 9.田宮〔雷電神社〕と石塚:幸手の秘密<智恵の神への信仰>

  日本の古代史には謎が多く秘められています。

 特に5世紀以前の歴史にはそれが顕著です。

 当講座はそのような不明のままの謎を

 古事記、日本書紀など日本の古代史は元より、

 神社の由緒、神名また地名

 さらに中国、インド、メソポタミア、ギリシアなどの

 古代資料をも参照しつつ解明すべく努力しております。

  よって当講座は古代の秘密のヴェールを切り裂く独特の

 研究成果となっています。

 当講座が世間に多くある歴史解説とほとんど同じであれば

 敢えて私が皆様にお話する意義はありません。

 当講座の内容がそれらと大分違っているからこそ

 お話申し上げる価値があるのだと考えております。

  当講座は古代日本に渡来したヘブライ系海洋商人たちが

 絹を求めて極東へ渡来し、九州北部へ居留地を形成、定住し、

 その勢力が次第に次第に近畿地方に東遷、

 さらに古墳時代から奈良時代にかけて東国(関東地方)へと

 その勢力を浸透拡大させてことを紹介しましたが、

 その結果「无佐志」は「ムソウ:武蔵」と呼ぶ

 武蔵〔ムサシ〕国となりました。

 「ムソウ」とはいかなる語義でしようか。

 それはこの地域を形成する上記の諸郡の名称や

 現在にも及ぶ市町村名の由来背景を解明することに明白となります。

 そこで顕在してくるのはヘブライ〔イスラエル〕の文化や神への

 信仰といった「旧約聖書」に由来する事々です。

 永い間秘匿されてきたこれら「武蔵国」の真相をご開示ご説明申し上げます。

2014年4月4日金曜日

虫追い〔松明まつり〕と稲作の神(16)


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 倭人の故郷と東埼玉の伝統行事

 久伊豆神社(ひさいずじんじゃ)〔さいじんさま〕
 香取神社(かとりじんじゃ)
 川崎神社(かわさきじんじゃ)

 歴史学講座『創世』:歴史研究家「小嶋 秋彦」

 課題:虫追い〔松明まつり〕と稲作の神
    ―武蔵国に伝わる倭人の祈り―

 (1) 倭人の故郷と東埼玉の伝統行事

 (2) 久伊豆神社(越谷市東越谷)     

 (3) 香取神社(越谷市大沢)    

 (4) 川崎神社(越谷市北川崎)の神殿と虫追い〔松明まつり〕 

  埼玉県東部の地域には

 意外にも古代に水田稲作という当時においては

 先端産業技術を身につけて、

 日本に渡来した倭人[和人]の文化伝承が濃厚に保たれております。

 その代表が”虫追い”という松明まつりです。

 わずか五、六十年前までの草加、八潮、越谷、春日部、岩槻域で

 盛んに行われていた夏の行事です。

 越谷市以北の田圃の中を貫流しているのが新方川で、

 周辺に「増」「松」を含んだ地名が散在しておりますが、

 これ等は倭語[和語]の「火」を表す用語に由来しています。

 川崎神社の祭礼は現在埼玉県の無形文化財に指定されています。

 倭人のもたらした水田稲作で豊作を祈願する信仰の象徴です。

 これに対して久伊豆神社は養蚕に係わる信仰に依っています。

 同社については

 さらに古代に日本へ渡来した他の宗教が習合されているので、

 その点についても概説いたします。

 香取神社では、絹加工技術の一つ「染め」が、

 この地域で明治維新後も盛んであったことを

 社殿のレリーフ(浮彫り)に留めているので紹介します。

  今回の訪問先についてご存じの方もおありかと思いますが、

 しかしその本当の由来についてはご存じないはずです。

 上記の「新方」「増」「松」の本義をご存じでしようか。

 「カワサキ(川崎)」の由来は何なのでしようか。

 当講座はそれらを明確に開示いたします。

 水田稲作
 水田稲作

 倭人[和人]
 倭人[和人]

 虫追い
 虫追い

 松明まつり
 松明まつり

 新方川
 新方川

2014年4月3日木曜日

虫追い〔松明まつり〕と稲作の神(15)


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 《参考:年表・資料》

 川崎神社(かわさきじんじゃ)
 越谷市北川崎一〇七(北川崎字宮脇)

 出典:川崎神社(越谷市北川崎):北川崎虫追い

 『北川崎虫追いのご案内』

 各位

 北川崎虫追いのご案内

  ※平成20年3月14日に埼玉県指定無形民俗文化財に指定されました

   北川崎の虫追い行事を下記の通り催します、

   皆様方のご参加とご協力をお願い申し上げます。

 記

 日時:平成23年7月24日(日)

    19時00分  川崎神社 出発

    松明に火を灯しながら、約2Kmの距離を歩きます。

    沿道の方々のご協力宜しくお願いいたします。

 ★ ★松明作りのご案内
   
   7月9 日(土) 朝8時00分より、松明作りを行います

   体験ご希望の方は奮ってご参加下さい。

   (松明作り教室も同時に開催します)         

   北川崎自治会会長 林 久雄

   川崎神社総代 遠藤 勇一

 ★ ★北川崎虫追いの由来

   寛政3年(1791)の夏は天候不順により稲に沢山の虫がついたため、

   虫を火に引き寄せ追い払う為に麦藁で作った松明を燃やしながら、

   田畑を回って歩いたところ.虫がいなくなり、その年は豊作になった。

   翌年からも一年に一度、年中行事として行われるようになった。

   * 江戸での当時の出来事*

   :葵小僧(あおいこぞう)押し込み強盗の大悪人、

    江戸中を荒らしまわったが、

    火付盗賊改方の長谷川平蔵により板橋で捕らえられた。

    平蔵と老中の専断により捕博後10日ほどで獄門にかけられた。

 北川崎の虫追いは超谷市北川崎の人々によって行われる農耕儀礼である。

 越谷の虫追いは、約220年前の江戸時代から始まったとの記緑が、

 西方村(現在相模町)の旧記に見られる。

 この旧記によると、

 寛政3年〔1791〕の夏は天候不順により稲に沢山の虫がついたため、

 虫を火に引き寄せ追い払うために麦わらで作ったたいまつを歯やしながら、

 田畑を回って歩いたところ、虫がいなくなり、その年は豊作になった。

 翌年からも一年に一度、年中行事として行われるようになった。

 これ以来、この行事は毎年7月24に行われ、

 夕暮れ時に人々が鎮守の川崎神社に集まり、

 御神灯から麦わらで作った2~3mのたいまつに火をともして、

 鉦(かね)や太鼓を交えて

 「稲の虫‘ホーイホイ」と声をかけながら農道を練り歩いて行く

 最後には氏子総代が、板倉神社(雷電神社)の御札と榛名神社の御札を

 青竹の先端に挟んだ弊束を字境に立てていく。

 この行事は越谷地区で北川崎だけに残されており、

 平成20年3月、県の無形民俗文化財に指定された。

  埼玉県教育委員会告示18号

   埼玉県文化財保護条例

   〔昭和30年埼玉県条例第46号)第26条第1項の規定により

   埼玉県指定無形民俗文化財として次のとうり指定する。

   平成20年3月14日

   埼玉県教育委員会委員長 高橋 史朗

   種類:無形民俗文化財

  所在地:越谷市北川崎

  名称及び員数:北川崎の虫追い

  保持団体:北川崎自治会

 ※ 川崎神社への行き方(虫追いの出発式(儀式)は18時45分挙行)

  (1) 東武伊勢崎線せんげん台下車(急行、準急停車駅)

     老人福祉センター行きバスに乗車

     大杉橋下車(老人福祉センターそばのバス停)~徒歩(約20分)にて

     川崎神社へ

  (2) 東武伊勢崎線北越谷下車(急行、準急は停まりません)

     老人福祉センター行きバスに乗車

     大杉橋下車(老人福祉センターそばのバス停)~徒歩(約20分)にて

     川崎神社へ

 道案内:こしがやネット 

 帰宅方法

 ※大杉橋(虫追い終点地区のバス停)~北越谷駅、

      せんげん台への帰宅バスの時刻表

 H23 年7 月24 日(土)休日運転

  北越谷駅(東口)行き220 円
   19時 05.19.31.44 
   20時 00.11.24.41.50
   21時 11.48
   22時 25

 せんげん台駅(東口)行き 170 円
   19時 16..38.50 
   20時 16.20.35.50
   21時 05.36
   22時 04

 以上

 「川崎神社:北川崎虫追い
 川崎神社:北川崎虫追い
  
 「板倉神社(雷電神社)
 板倉神社(雷電神社)
  
 「榛名神社
 榛名神社

  「川崎神社(越谷市北川崎)
 川崎神社(越谷市北川崎)

2014年4月2日水曜日

虫追い〔松明まつり〕と稲作の神(14)


 「古代史ブログ講座」開講にあたって
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 《参考:年表・資料》

 川崎神社(かわさきじんじゃ)
 越谷市北川崎一○七(北川崎字宮脇)

 出典:川崎神社(越谷市北川崎):歴史・信仰・氏子

 『歴史』

 当社の鎮座する北川崎は、越谷市の北東部に位置する。

 東西に細長く、東端は北葛飾郡松伏町との境界をなす古利根川に接している。

 元来は川崎村といい、正保年間(一六四四~四八)から、

 検地が行われた元禄八年(一六九五)の間に、

 南に隣接する向畑村を分村したと考えられている。

 明治十二年には、

 現在の八潮市南川崎と区別するため、北川崎と改称した。

 創建についての伝承はない。

 しかし、向畑に記られる香取神社が、

 分村の折、当時香取神社と称していた当社から

 勧請したものと推測されることから、

 元禄期以前には奉斎されていたものと思われる。

 『風土記稿』には

 「香取社 村持鎮守なり、本地十一面観音を安ず」と記されている。

 本地仏の存在から、江戸期には別当寺が関与していたことが考えられる。

 あるいは地内の浄土宗正福寺がかかわっていたものであろうか。

 ちなみに、

 現在本殿内には、全高四二センチメートルの十一面観音像が納められており、

 その厨子には、塗り替えたとされる大正七年七月一日の年紀が記されている。

 本殿内にはこのほか、

 「安政四巳年(一八五七)四月吉日」銘の金幣が奉安されている。

 これは、元来川端に鎮座していた吾妻神社のものである。

 明治四十年、境内社稲荷神社二社・水神社一社と共に当社に合祀され、

 これを機に当社は社名を川崎神社と改めた。


 『信仰』

 当社は川崎の鎮守として、更には五穀豊穣の神として崇められている。

 また、子供を守護する神であるともいう。

 祭りは一月十一日の豊作を祈るおびしゃの年一回である。

 神職による祭典奉仕後、

 境内では縁起物として鶏卵ほどの大きさの餅が撤かれる。

 これは「投げ餅」と呼ばれ、参集した人々が先を争って拾い集める。

 また、境内の甘酒小屋では、子供たちに甘酒が振る舞われる。

 直会は、北川崎集会所で催される。

 各自には、

 鯣(するめ)で作った松葉、昆布で形取った竹の葉、

 それに小梅を添えて「松竹梅」とし、

 煮千しを二尾付けて配られる。

 その後、席を拝殿に移し、総代・自治会長の立ち会いのもと、

 「申し渡し」と称する新旧年番の交替が行われる。

 旧年番を

 下番(かばん)(渡し番ともいう)・

 新年番を上番(じょうばん)(受け番ともいう)と呼び、

 下番から上番に宮形の厨子が引き渡される。

 厨子内には神鏡と白幣が納められ、

 下部は引き出しとなっており、帳簿が入っている。

 この厨子は、年番長であるが、一年間床の間に奉斎する。

 「申し渡し」に続き、弓取りの行事がある。

 用意された二つの的には、鶴・亀・松・竹・梅の絵が書かれ、

 これを目がけ、弓に矢をつがえて射るものである。

 弓は接骨木(にわとこ)・矢は空木(うつぎ)で作られる。

 当たれば豊作、外れれば凶作として、その年の作柄を占う。

 
 『氏子』

 氏子区域は北川崎である。

 氏子数は六〇戸余りで、

 川端(かわばた)組・中(なか)組・農良(のら)組の三つの村組に分かれ、

 更に各組が二分され、一番組から六番組の編成となっている。

 その約七割が農家である。

 氏子を代表し、神社運営に当たる総代は、

 各組から一名ずつ、合計一二名が互選される。

 また、祭礼や行事の際、世話役となる年番は、番組単位で順に務める。

 かつては、一反ほどの水田を社有しており、

 年番が耕作しておびしゃの賄いとしていたが、

 昭和四十年ころ、社殿の瓦葺き替えの費用を捻出するために売却してしまった。

 氏子の行事には、四月・七月の各八日に拝殿で、

 「ナイダの綱」と呼ばれる大きな縄を

 念仏を唱えながら回して悪魔祓いをする百万遍、

 六月三十日の赤子を連れて無事成長を祈願する、

 末社浅間神社の初山(はつうま)、

 七月二十四日の虫追い、十月十五日の収穀を感謝するお日待(ひまち)がある。

 中でも虫追いは、県の無形民俗文化財に指定されている。

 この行事は耕地の害虫を駆除するものである。

 当日の夕刻、銘々が松明を持参して当社に集まる。

 この松明は、竹の棒を芯にして麦藁を巻きつけるもので、

 かつては、五メートルに及ぶものもあったという。

 また、昭和十五年ごろには麦藁が不足したため、

 土瓶に石油を染み込ませて代用したこともある。

 日が暮れると、太鼓と鉦(かね)の拍子に合わせて、

 「稲の虫ホーイ、ホーイ」と言いながら耕地を巡る。

 途中、各字の境七か所に、

 榛名講と板倉講で受けて来た神札二体を笹竹に挟んだものを差し立てる。

 このほか、十月八日の晩に、

 小中学生が拝殿に籠る「くんち」があったが、

 昭和三十年ごろ、学校の指導で中止となった。

 『風土記稿
 風土記稿
  
 「おびしゃ

 「投げ餅
  
 「弓は接骨木(にわとこ)・矢は空木(うつぎ)
  
 弓は接骨木(にわとこ)・矢は空木(うつぎ)
  
 「虫追い
 " title="虫追い">虫追い
  
 「川崎神社(越谷市北川崎)