2014年4月15日火曜日

武蔵国の地名と旧約聖書(5)


 「古代史ブログ講座」開講にあたって
 Matのジオログ
 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 出典:歴史学講座『創世』:歴史研究家「小嶋 秋彦」

 課題:武蔵国の地名と旧約聖書
    ―荒川・入間・幸手などの隠された真義―

 埼玉県・幕屋(4) 新座:飯能・日高・入間

 扇町屋(入間市)扇町谷とも書く。

  地名の由来は愛宕神社の神体が五本の骨の扇であるためとする(新編武蔵)。

  しかし、「愛宕神社縁起」では町の形が扇形であることによるとし、

  「さいたまの地名」は町の前途を祝す嘉名によるものとしている。

 鍵山(入間市)昭和41年~現在の町名。

  もとは武蔵町大字黒須・高倉の各一部

 春日(かすが)町(入間市)昭和41年~現在の町名。

  春日神社名に依る。もとは武蔵町大字黒須の一部。

  春日神社名に依る。

 上藤沢村(入間市)江戸期~現在の村名。入間郡山口領のうち。

  天保年間以降に藤沢村が上・下に分村して成立したと思われる。

 河原町(入間市)昭和41年~現在の町名。とは武蔵町大字黒須の一部。

 黒須(入間市)

  地名の由来は、一説には地内で入間川が大きく屈曲しているため、

  くるり(矢柵)あるいは、くるわ(曲輪、郭)などの半円形の屈曲を

  示す用語から派生したともいわれる(黒須地誌)。

  また「豊岡町史」では、畔の意であり、

  畔洲を黒須の文字にあてはめたものとしている。

  中世には黒須村と称したと思われる。

 小谷田(こやた)(入間市)

  字豊泉・柿の木・谷窪・森原からは

  国分寺瓦を焼成した登り窯と布目、瓦が発掘されている。

  地内には古墳後期の田端遺跡、縄文前・中期の森坂遺跡、

  縄文中・後期の坂東山遺跡などがある。

  特に坂東山遺跡からは、多くの住居址や遺物の他に、

  男子成人骨を入れた甕が発見された。

  また平安期の高倉御所と伝える跡や江戸期の五味屋敷跡がある。

 高倉(入間市)

  地名の由来は、一説には渡来人に因むもので、

  高倉は高麗(カクリ)ノ音を国語化して呼称したものといわれ(地名誌)、

  また一説には高倉御所があったことによるとし、

  小字に宮、小路、中小路、若宮、宮ノ下などあることを

  その名残とする(豊岡町史)。

 豊岡町(入間市)

  明治22年~昭和31年の町名~町名は

  住民票により町の将来を祝福する嘉名とした。

 狭山台(入間市)昭和27年~現在の大字名。

  はじめ元狭山村、昭和33年武蔵町。

  昭和41年からは入間市の現行大字。

 仏子(ぶし)(入間市)「ぶっし」ともいう。

  地名の「ブシ」は多く小平地岸段丘・谷頭・鈍頂の山にみられる

  地名でもあるともいわれ(日本の地名)、

  また仏師(歴史地理)あるいは武士(入間郡誌)が

  もとになったといわれる。

  前堀川沿いからは、

  アケノボゾウの化石や平安期以降の窯跡などが発掘されている。

 南峯(みなみみね)(入間市)

  地名の由来は、江戸期以来の峯村が

  高麗郡の峯村と同名であることから、

  これと区別するため南の一字を冠して改称(南峯村地誌)。

 狭山(狭山市)昭和42年~現在の町名。

  元は大字入間川の一部。

  峰稲荷神社。

 北入曽(狭山市)北入磯とも書く(新編武蔵)。

  北入曽村[近世]江戸期~明治22年の村名。

 南入曽(狭山市)江戸期~明治22年の村名。

  入間郡河越領のうち。

  古くは山田郡吾妻荘山口領に属したという。

 上広瀬(狭山市)江戸期~明治22年の村名。高麗郡のうち。

  古くは加治領霞郡。または春原荘広瀬郡。あるいは山田荘に属したという。

  元広瀬村のうちであったが、元禄年間に上・下に分村。

 下広瀬(狭山市)江戸期~明治22年の村名。高麗郡のうち。

  古くは加治領霞郡に属したという。

  元広瀬村のうちであったが、元禄年間に上・下に分村。

 柏原(かしわばら)(川越市・狭山市)

  地区内に縄文期~平安期の集落跡が多く発掘され、

  室町期の城郭である城山、別称上杉城がある。

  柏原は鎌倉期からみえる地名。

  室町期以降、当村では鋳物業が起こり、

  村内の剣明神社の文明元年(1469年)2月28日在銘の

  懸仏に「剣明神 柏原住人」~。


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