2014年1月31日金曜日

「あらはばき」と神社(6)


 「古代史ブログ講座」開講にあたって
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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》 

 諏訪大社
 諏訪大社
 Wikipedia:氷川神社
 Yahooh検索『武蔵一宮:氷川神社』
 武蔵一宮:氷川神社・境内案内

 出典:記紀解体・133~144頁:近江雅和著
   :アラハバキ神と古代史の原像

 【愛媛県】

 ◎八幡市浜若山(旧、西宇和郡双村)に大元神社がある。(同書所蔵)

 ◎北宇和郡広見町内深田に大本(おおもと)神社がある。(同書所蔵)

 【高知県】

 ◎安芸市赤野(旧、赤野村)に大元神社

  (旧、大本社・大本明神で大元神を祀っていた)とある。(同書所蔵)

 【壱岐】

 ◎壱岐郡郷ノ浦町渡良(旧、石田郡渡良村)の

  物部布都神社(旧、蓬(布都・ふつ)宮という)は

  社記には阿良波加大明神とある。(『壱岐国誌』所載)

  ここには、氏神のアラハカ様は甕に入って漂着したという

  物部氏の降臨伝承がある。(三品彰英著『増補・日鮮神話伝説の研究他』平凡社)

 【大分県】

 ◎宇佐市の宇佐八幡の奥宮は大元山(御許山)の頂上にあり、大元神社という。

  (宇佐氏の項参照)

 ※大元神楽舞・大元神楽式の神事がある神社

  大元神楽は石見神楽ともいわれる。

  出雲の佐陀大社(島根県八束郡鹿島町)の神楽をその中心として、

  出雲全郡にあまねく普及し山陰、山陽方面にも広く分布するようになった。

 【島根県】

 ◎江津市の高倉山八幡宮(『神社名鑑』所載)

 ◎邑智郡岩見町の賀茂神社(同書所載)

 ◎邑智郡岩見町の大原神社(同書所載)

 ◎邑智郡岩見町の諏訪神社(同書所載)

 ◎邑智郡桜江町の八幡宮=郡鳩八幡宮(同書所載)

 ◎邑智郡川本町の三原八幡宮(同書所載)

 ◎邑智郡桜江町の八幡宮=郡鳩八幡宮(同書所載)

 ◎邑智郡瑞穂町の八幡神社(同書所載)

 ◎那珂郡旭町の市木神社=旧、馬場八幡(同書所載)

 ◎邇摩郡温泉津町の八幡宮(同書所載)

 ※地名・寺院に残るアラハバキ

  『和名抄』にはアラハバキの元の音に近いと思われる

  「アラハカ」の郷名が出ている。

 ◎武蔵国豊島郡荒墓郷

 ◎越前国坂井郡荒泊ま郷

 ◎常陸国那珂郡荒墓郷

 ◎難波四天王寺の旧地名は荒墓邑といい、

  四天王寺の山号は現在でも「荒陵山」(訓読みすればアラハカ)である。

 ◎鳥羽市小浜町区内の二見ヶ浦沖合にある「飛島」は

  (旧、二見町松下区内)、古くは「阿波良岐島」「淡良岐島」といっていた。

  なお、ここに挙げなかったが、寺院の中で特に修験関係には

  アラハバキの名は全く消されているが、脛巾、草鞋、鉄下駄を供えたり、

  薬師堂では「め」の絵馬を供えるなどしているところがある。

  それらはかってはアラハバキ神を祀っていたところに、

  仏教がかぶさって表向きは分からなくなっているが、

  信仰の在り方アラハバキであったことが分かる場合もある。

   例えば、私の住む八王子南大沢に

  「薬師瑠璃光如来」という小さな堂がある。

  地元では昔から眼病に効くといわれている。

  最近、堂が新しく変えられた際に、

  近くの鉄工所が鉄扉を寄進している。

  これは昔からの伝えでここは鉄神様だったからだという。

  この堂に「奥山半僧坊大権現」の札がかかっていたので、

  かって修験が採鉄をやっていた名残であることが分かった。

  近くには別所、東光寺、大栗川、大田平・だいだびら

  (製鉄の巨人伝承ダイダラボッチの変化)等の地名があることからも

  裏付けられる。

  少し注意すればこのような例はまだまだ見付かるはずである。

 《Key Word》

 大元神楽とは
 大元神楽

 石見神楽
 石見神楽

「あらはばき」と神社(5)


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 《参考:年表・資料》 

 諏訪大社
 諏訪大社

 諏訪大社
 諏訪大社
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 武蔵一宮:氷川神社・境内案内

 出典:記紀解体・133~144頁:近江雅和著
   :アラハバキ神と古代史の原像

 【東京都】

 ◎江戸城に荒脛巾祠堂があり、大田道観が城神として信仰、

  のち大元明神に改称している。

 ◎五日市町養沢(旧、多磨郡上養沢村)の門客人明神社は『新編武蔵風土記稿』に

  アラハバキと片仮名で訓(よ)みをつけている。

  現在社殿の東に「文政十一年」銘の灯篭一基があって、

  「門客人大明神」と刻まれている。

 ◎秋川市二宮(旧、多磨郡二ノ宮村)の二宮神社末社は、荒脛社である。

  (『西多磨郡誌』所載)

  毎年九月九日にはショウガ祭がある。(後に述べるようにショウガは本草の鉄)

 ◎奥多摩町氷川(旧、多磨郡氷川村)の奥氷川神社は

  背後の愛宕山の頂上に祀られた阿羅波婆岐社だった。

  現在は愛宕山山頂に白髭社とともに祀られている。

  また、すぐ隣の長畑にある白髭大神の合殿は金山大神で、

  製鉄に関わることを物語る。

  (『皇国地誌・西多磨郡村誌』所載、我孫子市の柴田弘武氏のご教示による)

  社伝では、武蔵国造が氷川神社を祀ったのはこの社が初めてだとあり、

  出雲系のトミ氏の流れを汲む武蔵国造一族の武蔵進出の目的が

  産鉄にあったことは疑いない。

  大宮の氷川神社、三ヶ島の中氷川神社、

  それにこの奥氷川神社は三つセットになって意味がある。

 ◎福生市熊川(旧、多磨郡熊川村)の熊川神社(旧、礼拝(ぬか)大明神)の

  末社は荒脛社である。(同社禰宜・野口裕教氏のご教示による)

  祭神は宇賀神で、近くには「ぬか塚」、

  松原長者伝説(長者伝説も製鉄伝承の一つである)がある。

  宇賀神、「ぬか」は製鉄に係わりがある。

 ◎多摩市一の宮(旧、多磨郡)の小野神社には随身像二体がある。

  随身はアラハバキ神の門客人化したものである。

 ◎湯島天神の前に大元堂がある。

 ◎葛飾区四ツ木の白髭神社はかって客人大権現と称し、

  境内社の大鳥神社には大小十数基の石碑に「客人大権現」と刻まれている。

  (我孫子市・柴田弘武氏のご教示による)

 【山梨県】

 ◎上都留郡下和井村の百歳山春日神社には地蔵尊の立像アラハバキ二体がある。

  (福士幸次郎著『原日本考』に『甲斐国志巻七二』所載とある)

 【静岡県】

 ◎伊豆の三島大社はかつてアラハバキ社だった。

  (『増訂豆州志稿』所載)

  『吾妻鏡』には末社の一つとして荒脛社をあげている。

 【愛知県】

 ◎宝飯郡一宮町の式内社・砥鹿神社(とがじんじゃ)は

  かつて4キロほど北にある本宮山(刀鹿の峰)の頂上にあった。

  現在奥宮として残っており、その摂社が荒羽々気神社がある。

  菅江真澄氏のいう「郷里のアラハバキ社」のこと

 【新潟県】

 ◎越後の一宮である弥彦神社の記録には、神社の一角に「アラハバキ門」がある。

  (仙台市・吉原賢二氏のご教示による)

  弥彦の神様は山中で足をすべらせて、

  ウドで目を突いて片目になったという伝説がある。

 【京都府】

 ◎丹後の籠神社の祭神が大元尊神であることは本書で明らかにした。

 【広島県】

 ◎安芸の宮島で知られる厳島神社の地主神は、

  土地では「おおもとさま」と呼んでいる。

 【鳥取県】

 ◎東伯郡東伯町保に大元(おおもと)神社(八幡さま)がある。

  (『神社名鑑』所載)

 【島根県】

 ◎出雲大社の境内末社に門神社二社があり、

  出雲大社資料館の彰古館には寛政8年(1668)作成の

  古社図が展示してあり、門客人社と記載されている。

 ◎八束郡千酌の爾佐神社の境外社・荒神社は、

  通称「おきゃくさん」とか「まろとさん」と言われ、

  かっては「アラハバキさん」と呼ばれていた。

 ◎大田市大森町(旧、邇摩郡大森町字佐摩)の城上神社境内社が

  大元(おおもと)神社である。(『神社名鑑』所載)

 ◎大田市祖式町(旧、邑智郡祖式村祖式)の八幡宮境内社が大元神社である。

  (『神社名鑑』所載)

 ◎那珂郡弥栄村木郡賀(旧、杵束村木都賀)の八幡宮境内社が大元神社である。

  (『神社名鑑』所載)

 ◎那珂郡金城町下来原(旧、雲城村下来原)の八幡宮境内社が大元神社である。

  (『神社名鑑』所載)

 ◎那珂郡金城町今福(旧、美又村下今福)の八幡宮境内社が大元神社である。

  (『神社名鑑』所載)

 ◎那珂郡旭町今市(旧、今市村今市)の八幡宮境内社が大元神社である。

  (同書所載)

 ◎那珂郡旭町木田(旧、木田村浜松山)の八幡宮境内社が大元神社である。

  (同書所載)

 ◎邑智郡大和村都賀本郷(旧、都賀村都賀本郷)の八幡宮境内社が

  大元神社である。(同書所載)

 ◎邑智郡大和村宮内(旧、布施村都宮内)の田立建埋根命神社には

  大元神社が合祀されている。(同書所載)

 ◎邑智郡瑞穂町下亀谷(旧、田所村下亀谷)の八幡宮境内社が大元神社である。

  (同書所載)

 ◎邑智郡桜江町川越(旧、川越村渡)の八幡宮境内社が大元神社である。

  (同書所載)

 ◎益田市津田(旧、美濃郡安田村津田)の八幡宮境内社が大元神社である。

  (同書所載)

 ◎益田市馬谷(旧、美濃郡真砂村馬谷)の厳島神社合殿に大元神社がある。

  (同書所載)

 ◎益田市隅村(旧、美濃郡高城村隅村)の八幡宮合殿に大元神社がある。

  (同書所載)

 【岡山県】

 ◎新見市石蟹に大本神社がある。(同書所載)

2014年1月30日木曜日

「あらはばき」と神社(4)


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 出典:記紀解体・133~144頁:近江雅和著
   :アラハバキ神と古代史の原像

 【秋田県】

 ◎雄勝郡大沢村上法寺山に阿良波々岐権現社がある。

  (『出羽国風土記略記』所載、大曲市・新谷氏のご教示)

 【山形県】

 ◎出羽三山は古来修験の道場であったから、

  古修験の信仰からアラハバギだった可能性が強い。

  今後の古修験の実体追求で明らかにしたい。

 【福島県】

 ◎会津若松市湊町赤堀(旧、北会津郡湊村赤井)に荒脛巾神社がある。

  (『会津風土記稿』所載)

  祭神は金山比古となっており、製鉄に係わりがあったことを示し、

  近くには金堀の地名もある。

 【千葉県】

 ◎市原郡姉ヶ崎町の式内社・姉崎神社末社に新波々木社がある。

  船橋市には大神宮、古くは音富比(オオヒ=大火か?)神宮と呼ばれていた。

  その社家は最近まで木更津の富(とみ)の家筋で、九十九代の系譜があるという。

  千葉県には印旛郡印西町と同郡本埜村にそれぞれ鳥見神社があり、

  いずれも崇神朝の創建と伝え、富氏との関係を裏付けよう。

 【神奈川】

 ◎横浜市戸塚区公田町に通称「アラハバキ」と呼ばれる地名があり、

  高さ80センチほどの石の祠は「アラハバキさま」という。

  この付近には鍛冶ヶ谷という地名もあり、おびただしい鉄滓が出土している。

  (横浜市・鈴木義重氏のご教示による)

 ◎厚木市小野(旧、愛甲郡小野村)の式内社・小野神社末社に阿羅破婆枳神社がある。
  『新編相模風土記稿』によれば「阿羅破婆枳、

  春日に二社を相殿とす」とあるから、

  かつては本殿にあったものが末社に落とされたことが分かる。

 【埼玉県】

 ◎上尾市菅谷(旧、足立郡菅谷村)の氷川神社末社が荒脛社だった。

  (『新編武蔵風土記稿』所載)

  近くの伊奈町・大山遺跡で7、8世紀のタタラ炉が発見されている。

  菅谷の地名が製鉄に係わりがあることは前著で紹介した。

 ◎上尾市戸崎(旧、足立郡戸崎村)の氷川神社末社が荒脛社だった。

  (同書所載)

 ◎上尾市今泉(旧、足立郡今泉村)の氷川神社末社が荒脛社だった。

  (同書所載)

 ◎大宮市高鼻町(旧、足立郡高鼻村)の式内社の名神大社・氷川神社摂社に

  門客人社がある。(同書所載)

   『江戸名所図会』には荒波々幾社として載せているから、

  天保の頃までアラハバキを称していた。

  さらに同書は、『新編武蔵風土記稿』記載の

  「社伝には孝昭天皇三年創建」とあるのは氷川神社のことではなく、

  アラハバキ社のことをいうのであろうと、指摘している。

 ◎大宮市中釘(旧、足立郡中釘村)の氷川神社末社が荒脛社だった。(同書所載)

 ◎大宮市島根(旧、足立郡島根村)の氷川神社末社が荒脛社だった。(同書所載)

 ◎大宮市日進町(旧、足立郡上加村)の氷川神社(旧、日進神社か?)

  末社が荒脛社だった。(同書所載)

 ◎大宮市中川(旧、足立郡中川村)の氷川神社末社が荒脛社だった。(同書所載)

  この社は、古くは中山神社といわれ、簸王子社を称していたが、

  現在は末社四社があるものの社号、祭神はいずれも不明。

  この中の一つアラハバキ社とみられる。

 ◎大宮市宮前(旧、足立郡上内野村)の氷川神社末社が荒脛社だった。(同書所載)

 ◎大宮市内野本郷(旧、足立郡下内野村)の氷川神社末社が荒脛社だった。

  (同書所載)

 ◎大宮市櫛引町一丁目(旧、足立郡櫛引村)の氷川神社末社が荒脛社だった。

  (同書所載)

 ◎伊奈町小針内宿(旧、足立郡小針内宿村)の氷川神社末社が荒脛社だった。
 
  (同書所載)

 ◎吹上町(旧、足立郡前砂村)の氷川神社末社が稲荷・門客人・諏訪の合社。

  (同書所載)

 ◎浦和市西堀(旧、足立郡西堀村)の氷川神社末社が荒脛社だった。(同書所載)

  東隣は製鉄に関係がある別所である。

  別所については

  柴田弘武氏の『鉄と俘囚の古代史』(彩流社)をご覧いただきたい。

 ◎浦和市白鍬(旧、足立郡白鍬村)の氷川神社末社が荒脛社だった。(同書所載)

 ◎浦和市内谷二丁目(旧、足立郡内谷村)の氷川神社末社が荒脛社だった。

  (同書所載)

 ◎桶川市小針領家(旧、足立郡小針領家村)の氷川神社末社が荒脛社だった。

  (同書所載)

 ◎川口市芝(旧、足立郡芝村)の羽盡(はぞろひ・羽曽呂とも)の末社に

  荒波々喜社がある。(同書所載)

  近くには須賀の地名(製鉄に関わる地名)もあり、

  川口市が鋳物の町といわれるのもうなづけよう。

 ◎川口市戸塚(旧、足立郡戸塚村)の氷川・熊野峯岳明神合の末社が荒脛社だった。

  (同書所載)

  すぐ南にある同市安行慈林の薬師堂池には
 
  製鉄伝承に関わる片目の魚伝説がある。

 ◎川越市古谷本郷(旧、足立郡古谷本郷村)の八幡神社末社は

  荒脛明神他二十一社の合殿。(同書所載)

 ◎坂戸町塚越(旧、入間郡塚越村)の住吉神社末社に荒掃徐神が祀られていた。

  (同書所載)

  現在は末社が数社あるが、アラハバキの名は消されてしまい不明。

 ◎所沢市三ヶ島(旧、入間郡三ヶ島村)の中氷川神社(旧、長宮明神)末社に

  荒脛社がある。(同書所載)

  武蔵の式内社四十四座のうち一座が中氷川神社となっているが、

  今、この一座をめぐって所沢市山口にあると互いに式内社を主張して譲らない。

  だが、アラハバキ社のある当社の方が古いことは疑いない。

 ◎所沢市三ヶ島(旧、入間郡三ヶ島村)の中氷川神社(旧、長宮明神)末社に

  荒脛社がある。(同書所載)

  武蔵の式内社四十四座のうち一座が中氷川神社となっているが、

  今、この一座をめぐって所沢市山口にあると互いに式内社を主張して譲らない。

  だが、アラハバキ社のある当社の方が古いことは疑いない。

2014年1月29日水曜日

「あらはばき」と神社(3)


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 諏訪大社
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 出典:記紀解体・133~144頁:近江雅和著
   :アラハバキ神と古代史の原像

 【青森県】

 ◎津軽は平安時代にいたるまで、中央の大和朝廷の勢力が及ばなかった

  化外(けがい)の地であったから、アラハバキ社がかなりあったはずである。

  今はわずかに菅江真澄の調べによって知ることができるだけである。

 ◎青森市松森に鹿脛縢明神社(あらはばきみょうじんしゃ)があった。

  (菅江真澄の『すみかの山』所載)

 ◎五所川原市の東にある中山山地は中山修験の霊場で、

  かつては古修験の聖地だったが、仏教による修験道への変化とともに

  その信仰形態は古い姿は痕跡を残さないまでに消えてしまったために、

  古代アラハバキの名は見られないが、恐山のイタコの信仰とともに

  最も古い信仰が津軽に残っていることは、

  古代アラハバキの名残と推測される。
 
  この追求は今後に譲りたい。

 ◎津軽の荒磯神社・洗磯神社・磯崎神社はかつて荒覇吐神社であった。

【宮城県】

 ◎岩出山町下一栗字荒脛巾(旧、玉造郡上一栗邑)に

  荒脛社(旧、荒鎺権現社)がある。(『封内風土記』所載)

  同社の縁起によると

  「祭神は天・地・水の三神を基として、日輪(日、月星)を

  父なる神、万物を育む地、水(山海)を母なる神とする、

  自然信仰で、二千年に及んで鎮座する産土神である」として

  元初の最高神だったことを伝えている。

  それも何時しか「みずいぼの神」と呼ばれ、

  「目、耳、鼻」の神にもなってしまった。

  同地区には製鉄にまつわる片葉の葦の伝説が残っている。

 ◎多賀城市市川奏社(旧、宮城郡市川邑)に

  荒脛巾神社(旧、阿良波々岐明神社)がある。

  『封内風土記』には一の宮・塩竃神社末社と記していることは、

  塩竃神社の祭神がアラハバキに関係があったことを示している。

  『先代旧事本紀大成教』は

  「ナガネスヒコが大和で敗れ陸奥に退いたとき、

   民に塩を焼いて施し、軍船を司った。

   よって陸奥の鎮としたのが今の塩竃の神である」

  と述べている。

  菅江真澄が『すみかの山』で血鹿の浦を訪れたとき
 
  故郷のアラハバキと同じだといったのはこれを指している。

  多賀城址の西に「南宮」の小字名もあり、製鉄とのかかわりを示している。

  南宮(なんぐう)が製鉄に関係があるのは、

  南宮社と中山神社は製鉄、冶金の神・金山彦を祀っているからである。

  それぞれ各地の産鉄地にあるが、

  中でも岐阜県不破郡垂井町の南宮神社は、

  美濃国一の宮で式内社の名神大社。

  古くは仲山金山彦神社と称していた。

  「中山」の名の由来は中国最古の地誌といわれる『山海経』からきている。

  同書の鉄の生産を伝える「五蔵山経」は

  南山経、西山経、北山経、東山経、中山経の五篇で構成されており、

  その中でも中山経は産鉄・製鉄について

  物語が描かれていることからとったものである。

 《Key Word》

 山海経
 山海経・画像

 五蔵山経

 五蔵山経・画像

2014年1月28日火曜日

「あらはばき」と神社(2)


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   :アラハバキ神と古代史の原像
 
 【栄花】みはてぬゆめ

 「大元帥の法といふことは、

  ただ公(おおやけ)のみぞ昔より行はせ給ひける」

 〔訳〕大元元帥の法会ということは

    もっぱら朝廷だけが昔から行いなされてきた。

 空海は真言密教の開祖であるが、梵語・ペルシャ語・アラビア語にも通じ、

 はるかインド、さらにアラハバキの原点に指向していたのです。

 古代信仰のアラハバキがインドから中国に入り

 大元明王に変身して皇帝独占の秘密法となったのを見逃すはずはなかった。

 当時、仏教は国家仏教で庶民とは縁遠い宗教であったが、

 渡会氏が外宮を大元尊神とする教理を打ち立てたのと同様に、

 仏教に組み込まれて外道に落とされた

 アラハバキ神の本流への復活が狙いだったのでは無いだろうか。

 政府間レベルの中国との遣唐使による国友の他に

 物部氏系や古代アラハバキ信仰を持って弥生初期に渡来した古氏族は、

 独自のルートをもって中国と交流があり道教と習合した

 「大元」を知っていたとしなければなるまい。

 「アラハバキと神社」

 弥生の初期に渡来した部族の最高神アラハバキの信仰も

 「記紀」の影響や仏教による変容で、

 すっかり影をひそめ江戸時代には、何神であるかは不明になってしまった。

 わずかに古代氏族が王権の抹殺をのがれるために

 密かに今日までその伝統を守り続けた。

 かろうじて文献のみその名をとどめるか、

 あるいは、末社で密かに生きつづけるのにすぎない。

 神社や寺院にはアラハバキの名こそ消えてしまったが

 弥生文化といえば稲作と同時に製鉄の始まりであるから

 アラハバキ神は製鉄とも密接な関係があることを無視できない、

 草鞋、鉄製下駄を供えたり、目の神様になっていたり、

 習俗から見て元の神が変容していることを示す、例が数多く発見できる。

 それから、多くの本殿や本堂ではなく、

 末社・摂社に追いやられているので注意したい

 あらはばき神社はどんなところに見られるでしょう。

 《参考》

 あらはばき神と謎の古代史
 アラハバキ神と謎の古代史「記紀」1
 アラハバキ神と謎の古代史「記紀」2
 アラハバキ神と謎の古代史「記紀」3
 アラハバキ神と謎の古代史「記紀」4
 アラハバキ神と謎の古代史「記紀」5
 アラハバキ神と謎の古代史「記紀」6
 アラハバキ神と謎の古代史「記紀」7

「あらはばき」と神社(1)


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 《参考:年表・資料》 

 諏訪大社
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 出典:記紀解体・133~144頁:近江雅和著
   :アラハバキ神と古代史の原像

 『アラハバキの残影』

 「神社に残るアラハバキ」

  かっては、

 はるか弥生の初期に渡来した部族の最高神アラハバキの信仰も、

 その後の『記・紀』の影響や、仏教による変容ですっかり影をひそめ、

 江戸時代には何神であるかは不明になってしまった。

 わずかに古代氏族が王権の抹殺をのがれるために

 密かに今日までその伝統を守りつづけたほかは、

 かろうじて文献にのみその名をとどめるか、

 あるいは末社でひそかにいきつづけるのを

 散見できるに過ぎない有様である。

 それらを筆者が調べたものに前著『隠された古代』を

 ご覧なった読者からのご教示を加え、ここにまとめておきたい。

  かって中山太郎氏は、

 「アラハバキ神は天孫族がわが国に渡来する以前に、

  先住民族によって祭られた神、すなわち地主神である」

 という鋭い指摘をしたが(『日本民俗学②』大和書房)、

 ついにその発生源の追求までは及ばなかった。

 神社や寺院関係にはアラハバキの名こそ消えてしまったが、

 弥生文化といえば稲作と同時に製鉄の始まりであるから、

 アラハバキ神は製鉄とも密接な関係があることを無視する訳にはいかない。

 こうした観点から見ると信仰の根強さは各所に受け継がれ、

 その祀り様や、草鞋、鉄製のゲタを供えたり、

 あるいは目の神様になっているなどの習俗からみて、

 元の神が変容していることを示す例が数多く発見できる。

 それらの多くは

 本殿や本堂ではなく、末社・摂社に追いやられているので注意したい。

 今後もそういった痕跡を丹念に拾い上げていきたいと思っている。

 《参考》アラハバキ神と謎の古代史「記紀」 7「あらはばきと神社」
  
     ひーさんの散歩道

 アラハバキの信仰は弥生時代のごく初期、

 あるいは縄文時代のごく終わりの頃に渡来したものである。

 そしてその原点が南アラビヤのヤマン地方にあり、

 アラハバキの語源は最高の神の意味である。

 古代アラビア語の「アラハバキ」からきている。

 かつて、

 中山太郎氏は

 「アラハバキ神は天孫族が、我が国に渡来する以前に、

  先住民族によって祭られた神、すなわち地主神である」

 という鋭い指摘をしたが(日本民族学②大和書房)

 それ以上の追求は出なかった。

 私も以前そう思っていました、

 またアラバキ族とかアラハバキ族という言葉も耳にします。

 おそらくこの信仰を持っていたものを総称して表していた言葉なのでしょう。

 時代が下れば、これも否定はできないと思います。

 しかし、ここで述べているのはどこから発生したのかを追求していますので、

 もっと遡って考えましょう。

 「南アラビヤからインドへ」

  南アラビヤからインドに入って住み着いた一団は、

 その後アーリア系の侵入で森林広野に住んでいたので

 「アーラヴィ」(林住族)と呼ばれたことが、

 紀元三世紀のインド・マウリア王朝の宰相カウテリアの著書「実利論」に出てくる。
 「インドから中国へ」

  アラハキ神はシルクロード経由で雑密僧によって

 中国西北部の?奴に入った。

 中国本土では三世紀の三国時代(220~280)

 西域の雑密僧によってアラハバキを含むプレ雑密僧文化が「呉」に入り

 江南を中心として中国全土に広がった。

 8世紀の唐代(618~907)

 密教教典の訳出が行われた。

 この時代には、音写ではなく義訳による漢訳教典が続々と現れて、

 「元帥」「大元帥」の形になって行きました。

 この漢訳教典は宮廷に設けられた内道場で、

 ?命により秘訳されたということは、

 皇帝以外には行うことが許されない秘法であったことを物語る。

 この時点でアラハバキ神の性格は護法神から

 国家鎮護の「大元帥明王法」として皇帝独占の秘法へと変わった。

 (通常大元帥明王は「帥」の字を読まず

  「だいげんみょうおう」とよんでいる)

 「中国から日本へ」

 9世紀になると中国で漢訳された密教経典や道教と習合した

 大元帥明王法は遣唐使により日本へもたらされることになった。

 小栗栖(オグルス)

 承和4年(837)に請来(しょうらい)空海の奏上、

 仁寿元年(851)以降、

 朝廷では二つの密教秘法が毎年正月八日に行われた。

 一つの「御七日後修法」(ごしちにちのみしほ)と呼ばれ

 天皇の玉体護持と国家安穏を祈る。

 真言密教の秘密法で、

 もう一つが「大元帥御修法(だいげんのみしほ)」で

 怨敵、逆臣の調伏、国家安寧を祈る大法であった。

 ※古語辞典では=「大元帥の法」だいげんーのーほふ

 陰暦正月八日から~十四日までの七日間、冶部省(じぶしょう)で

 国家鎮護のために大元帥明王と本尊として行った大法会(ほうえ)

 《Key Word》

 記紀解体・近江雅和著
 隠された古代

阿良波岐神について


 「古代史ブログ講座」開講にあたって
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 《参考:年表・資料》 

 諏訪大社
 諏訪大社
 『武蔵一宮:氷川神社』
 Wikipedia:氷川神社
 Yahooh検索『武蔵一宮:氷川神社』
 武蔵一宮:氷川神社・境内案内

 出典:「阿良波岐神についてについて」雄物川町教育委員会
   :雄物川町郷土史史料・第二十集

 『阿良波岐神について』

  阿良波岐(あらはばき)神とは、

 いかなる御事蹟を持つ神であるかを、

 「神名辞典」等で調べて見るに、

 この神については「御事蹟不明」と記されている。

  それ故この神はどうやら皇系の神ではないようである。

  従って「古事記」や「日本書紀」には見られない。

 一体いかなる神であるのか。

  近年この神に関する研究が進められ、色々な論考が発表されている。

  これらの事から引用して、

 この神の姿を顕現して見たいと試みる次第である。

  この神は雄物川町大沢字上法寺、金峰神社にも祀られている。

  金峰神社御祭神は

   金山毘古神、金山毘売神、阿良波岐(あらはばき)神、

  素佐之男命、安閑天皇である。

  この内金山毘古、金山毘売、両神は鉱山に関する神であり、

 奈良県吉野の金峰山に祀られ、

 諸国に勧進されている「金峰神社」の御祭神でもある。

  また素佐之男尊は木神として、

 また五百三十年第二大和国高市郡曲川村に都を定めた

 第二十七代安閑天皇も祀られている。

  安閑天皇は二十六代継体天皇の皇子で、

 母君は阿部氏族出の阿部波延比売で、

 上法家(元阿部氏)とは同氏族の関係にあると見られる。

 上法家は養老七年阿部本麻呂を始祖として居り、

 越の国の国守である阿部氏との関係が強く知られるのである。

 さて祭神として祀られるている荒羽々岐神について、

 「荒波波岐神、荒脛神、荒脛巾神、荒吐神、阿良波々神、阿波々幾神」

  等の字が当てられている。

  上法寺金峰神社は前記の五神を同列に配しているので、

 摂社、末社的な関係ではない。

  それ故、荒羽々岐神の性格を詳しく探って見ることにする。

  荒羽々岐神は大和政権(神話、古墳時代を含む)進出以前より、

  土俗民の信仰対象神ではなかったか。

  それ故大和政権の神には見られない。
  
  然し時代が進むにつれて、大和政権の神々と同居するもの、

 集合するもの、又は抹殺されたものがあったようである。

  同居するものとしては、当雄物川町大沢字上法寺、金峰神社がある。

  その他を見るに、大社に於いては主祭神としては見られないようである。

 唯埼玉県大宮市(かっての武蔵国足立郡)に鎮座する

 「氷川神社」に摂社、門客人社のあることが記載され

 (新編武蔵風土記稿中、足立郡の条)、

 豊石窓(とよいわまど)、櫛石窓(くしいわまど)の二神が祀られていると云う。

 豊石窓、櫛石窓は雨岩戸別(あめのいわとわけ)神の別名で、

 もとは一つの神であったと見られている。(古事記)

  これが古い時代には荒脛巾神と呼ばれていたことが知られている。

  氷川神社は考昭帝代、出雲の氷(簸)の川上に鎮座していた

 杵築(きづき)大社移し祀り、「氷川(ひかわ)神社」の神号を賜ったものと云う。

  それは武蔵国造が、出雲国造と同族であると云うことを

 背景にした社伝で、氷川を出雲の簸の川としないで

 「新撰姓氏録」に記載される氷連にあてた説とも云われている。

  このように古代から大社の客人(まろうど)神又門人として

 祀られている荒脛巾神は、大和政権の神々が入る前は、

 矢張り土俗の信仰神(地主神)として祀られていたものと推測される。

  それが大和の神々の進出によって、同居、習合又は抹殺されると云う

 運命を辿ったものと見られる。

  それでも「氷川神社」の例のように門客人(もんきゃく)神として

 祀られていることは、よい例と云わなければならない。

  また神奈川県厚木市小野に鎮座する小野神社は、

 祭神が時により変りながらも古体の阿羅波波枳神を守り続けていると云う。

   日枝神社

   阿羅波波枳神社

   淡島神社

  但し、これは尾の神社の末社とあり、

 神仏習合の汚染を受けない原初的表記を残している。

  さて荒脛神は関東以北に多く祀られている。

  関西以西では出雲の杵築神社に祀られていることは、

 前述の通りで、その他では出雲大社に門客人社として祀られていると云う。

  一例として多賀城の荒波波岐神を見るに、

 多賀城内郭築地の外の、しかも築地の近くに祀られている。

  これは明らかに外敵退散のために置かれたことが伝えられている。

  外敵とは当時反乱の虞ある蝦夷のことで、

 それを防ぎ守る神として置かれたものと推測される。

  従って塞の神、(防障、防疫も兼ねた神)として

 祀られた傾向が強く感じられる。

  そうとすれば、これは門神である。

 門神は神社の門に衣冠束帯姿で脛巾(はばき)をつけた

 二対の随身の木像としても見られる。

  これは朝廷の御門に脛巾をつけて守っている

 衛士から起った名前ではないかとも云われ、

 外敵や邪鬼撃退のためのものと見られる。

  客人(まろうど)神は神社の主神と関係のある謂わばお客人的神で、

 多くは摂社として境内に祀られている。

  門客人(もんきゃくじん)神は前記の双方を兼ねた神である。

  それ故阿良波波岐神は、その祀るところの神に依り、

 客人神であったり、門客人神であったり、又は門神として祀られている。

  上法寺、金峰神社(里宮)に脛巾と草鞋が奉納されている。

  これは門神として信仰する人の奉納であろう。

  いづれにしても神として信ずる人の心に、

 有史以前より伝わる土俗民の信仰神、謂ゆる地主神を、
 
 今に伝え信ずることは素晴らしいことと謂わざるを得ない。

  またある時代に次のような図式が生み出されたと云われる。

  荒羽々岐=役小角=大元帥明王、

  大元帥明王は天皇家の秘仏とされ、

 一般大衆に於いては祀ることが禁じられたと云う。

  後世徳川家がこれを取り入れ祭祀している。

  また津軽地方の遺跡より多く出土する遮光土偶が、

 荒羽々岐の御神体であるとする説がある。

  これは仏教伝来以前に

 中国中東より起った牛の角を兜につけた帝王が、

 両腋に太陽(神)を抱く姿と符号させたものと見られる。

  それ故男女が一体神であるとする。

  そこで、「東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)」を見るに

 次のような記事がある。

  「依って都人の智謀 数なる輩に従せざる者は蝦夷なるか、

   吾が一族の血肉は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず、

   平等相違の暮しを以って祖来の業となし………」と。

  これは近世(元禄十年七月)に於いて秋田頼季が書いたものとされている。

  秋田氏の祖先は前九年の役に敗れた安部氏であり、

 安部氏の祖は神武東遷の際、

 天皇に滅ぼされた長随彦の兄、安日彦(あびひこ)で、

 戦いに敗れた後は津軽十三港地区に遁れ、やがて豪族化する。

  この一族は巨大な勢力を以って南遷を試みるが、

 いづれも大和朝廷の軍に敗れ、蝦夷の汚名を冠されて浮沈の歴史を辿る。

  然しこの一族には驚くべき文化があったものと考えられる。

  それは縄文晩期の出土品に依っても知られる。

 従ってこの地区から多く出土する遮光土偶こそが、

 土俗民の信仰神である「荒羽々岐神」の御神体であるとしたことも

 頷かれる気がする。

  然し「東日流外三郡誌」が

 秋田孝季とその縁者の和田長三郎吉次の編纂(寛政元年以降)に

 なるものであることからすれば多少疑問も残る。

  荒吐(あらばき)神累統之譜抄

            ┏日 神 (シウリ カムイ)
      ┃
      ┣月 神 (シバケ カムイ)
      ┃
  イシカ  カムイ ┣風 神 (フキ カムイ)
 天  神  ┃
            ┣雷 神 (タラ カムイ)
 (男 神)  ┃
            ┣星 神 (オシズ カムイ)
            ┃
            ┗刻 神 (     カムイ)

            ┏木 神 (ドチヤ カムイ)
      ┃
 イシカノコ カムイ ┣火 神 (シボト カムイ)
 地  神  ┃
            ┣土 神 (キムチ カムイ)
 (女 神)  ┃
            ┣金 神 (タタラ カムイ)
            ┃
            ┗水 神 (ミナト カムイ)


            ┏海 神 (ツボ カムイ)
      ┃
      ┣衣 神 (ドギ カムイ)
      ┃
            ┣飢 神 (セモチ カムイ)
      ┃
           ┣住居神 (コタン カムイ)
       ┃
      ┃
            ┃
  アラハバキ    ┃
 荒吐神  ┫                  ┣荒吐一族
            ┃
            ┃ 
      ┃
      ┣山 神 (アンイ カムイ)
      ┃
            ┣農 神 (オヤゲ カムイ)
       ┃
            ┣軍 神 (シャマイン カムイ)
            ┃
            ┗薬 神 (シラタ カムイ)

  以上に見る如く、

 関東以北に荒羽々岐神の信仰が」強く残されているようで、
 
 これは大和政権の浸透が遅れた東北地方土俗民達が、

 強力な信仰心を以って守り続けた関係かも知れない。

  この原始時代以来の姿なき神、

  「然し時としては荒ぶる神であり、恵みを齎す神として」

 今に信仰されていること。

  それを信じ続けて来た東北民は、一面かたくなでもあるが、

 反面心根が優しく、純朴な気風を育み伝えている。

  これは実に素晴らしい伝統と見るべきであろう。

 《Key Word》

 神名辞典

 金峰神社・横手市雄物川町大沢字上法寺37
 金峰神社
 小野神社

 大元帥明王
 大元帥明王・画像
 遮光土偶

 東日流外三郡誌

 東日流外三郡誌・画像

2014年1月25日土曜日

荒脛神社について


 「古代史ブログ講座」開講にあたって
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 《参考:年表・資料》 

 諏訪大社
 諏訪大社

 『武蔵一宮:氷川神社』
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 武蔵一宮:氷川神社・境内案内

 出典:岩井茂・「荒脛神社について」埼玉県郷土文化会
   :埼玉における郷土史研究会雑誌・埼玉史談第48巻第1号

 『荒脛神社について』

  荒脛(あらはばき)神社は、氷川神社の摂社として、

 足立郡の大宮台地沿いに祭祀されている。

 川口市戸塚・芝宮根、浦和市内谷・田島・西堀・白鍬、

 大宮市島根・並木(三橋町)・上内野(宮前町)・内野本郷・櫛引・

 上加(日進町)・ 中釘・中川や上尾市戸崎・今泉、

 桶川市菅谷・小針領家、伊奈町小針内宿などで、

 この中で氷川神社の摂社でないのは

 川口市芝宮根の羽尽(はぞろ)神社境内に祭祀されているのみである。

  その祭祀の中心は、大宮氷川神社境内に祭祀されている

 「門客人社」となっている荒脛社であるが、

 『江戸名所図会』には境内摂社として「荒波々幾社」が

 男体社・女体社の東側に祭祀されているのが描かれているのが見られる。

 武蔵国には他の地域の多磨郡にも幾つか

 荒脛社を祭祀していた形跡は見られるが、

 大宮台地沿い集中して祭祀されているのは何故だろうか?、

 この荒脛神に付いてはいくつかの説があるが

 『東日流外三郡誌』による

 産鉄民族説、

 アビヒコ・マガスネヒコの津軽逃亡説・ダイダラボッチ伝説などである。

  荒脛(あらはばき)とは昔の旅人や農民が耕作する場合に着用した

 脛当(すねあて)の脚絆のことで、

 全国的に見られるない同社が何故か足立郡のしかも大宮氷川神社周辺の

 古入間川(荒川)沿いの自然堤防微高地や

 大宮台地の縁辺に祭祀されているのである。
 
  これは氷川神社と切り離せない関係や

 問題は潜んでいるのではないかと疑念を持ち、

 丹念に鎮座してる地理地形を踏査検討した。

 産鉄民族の移動説も興味のそそられる提言であるが、

 大宮台地の西側には上古代には

 利根川・荒川が流れた事は地質学で解明されているが、

 前記の祭祀地は台地の裾や河川敷に隣接する所の

 氷川神社摂社に祭祀されていることに気付いた。

  産鉄民族の移住説もあながち無視出来ないので、

 ここで氷川神社の祭祀に付いて述べて見よう。

 旧武蔵国の埼玉県・東京都・神奈川県に編入された

 久良伎郡などには合計二百二十二社が祭祀され、

 武蔵国以外でも、近世にに六社が祭祀されているが、

 その三分の一は足立郡に祭祀されている事実は

 否定出来ないのである。

  河岸段丘での砂鉄採取に適していた

 土地であることは否めない事実だが、

 鍛冶ヶ谷戸とか言う地名が意外と残され、

 大宮市奈良町(鍛冶村)や、吉野原(吉野町)、

 佐知川には金山神社が祭祀されている事と、

 鍛冶村・吉野村は加茂川に面していて、

 佐知川は古入間川(荒川)流跡に面しているので、

 砂鉄採集には好適地と想定されるが、

 大宮氷川大社は古来より毎年十二月十日には、

 火祭りを一大神事と江戸時代初期まで残されていた。

  『新編武蔵風土記稿』には、火祭跡として

 「本地堂なる東の方なるわすかの芝地なり、

  昔毎年十二月十日ここにて火祭と云神事ありしが

  延宝三年(1675)神主氷川内記(ひかわないき)が上京して、

  神祇伯の吉田家と計りて清祓の祭礼に改めた」と記している。

 出雲大社では同社資料館に、

 寛文八年(1668)作成の古社図が展示してあり、

 明らかに「門客人社」と記載されているのを

 四年前訪れた時に実見している。

  『更科日記』の著者、

 上総介菅原孝標(すがわらたかすえ)の娘十三歳が、

 平将門の乱より百十五年後に氷川神社を訪れて見たのは、

 ははその森(神社の社叢のこと)や、

 氷川大社が「平将門の乱」で焼け落ちた社跡の礎石「火吹屋」

 の小屋と、番人の姿であり、延宝三年以後は、釜でお湯を沸かして、

 柄杓で社前で振り撒く神事祭礼に代えている。

 十二月十日の大湯祭りは「湯火祭(とうかまち)」となっている。

 この時より境内に祭祀されていた

 「荒脛巾神社」を門客人社と改め、

 手摩乳(てなずち)足摩乳(あしなずち)の二神を配祀したと記されている。

  県立大宮球場改築の際に遺跡調査が行われて

 『氷川神社東遺跡調査報告書』によると、

 火祭りの跡や製鉄の際に出る鉄滓(かなくそ)や小さな仏像、

 「鉄の口琴」が出土して、

 世界口琴研究学会で最古のものと判定されているが、

 このような仏像・口琴を作れる技術集団が

 氷川神社境内付近に居住していた事を示す重要な資料でもある。
 
 『古代の鉄と神々』『風と火の古代史』『隠された古代』によれば、

 スサノオノミコトの八岐大蛇(やまたのおろち)の神話は、

 現代史学ではスサノオノミコトは、

 縄文時代末期に産銅の技術を持った人達が朝鮮半島から渡来し、

 弥生末期には二次的に産鉄・製鉄技術を持った集団の渡来で

 鉄文化の時代になったので、

 弥生後期の伝承を残すのがこの火祭りであろう。

 『東日流外三郡誌』の産鉄民族説は肯定できるが、

 砂鉄採集と製鉄集団の首長がスサノオノミコトで

 砂鉄採集民族は製鉄技術者に隷属して、

 東武蔵国の足立郡の河川や台地の縁辺に居住して

 砂鉄の採集に従事したのであろう。

  この時に台地の崖や川に入るの足を保護するのは

 強靭な脛当ての脚絆(きゃはん)すなわち荒脛(あらはばき)

 スサノオノミコトを出雲国の産土神(うぶすながみ)簸川の神として、

 足立郡を拠点に多く祭祀されている理由でもあり、

 砂鉄採集集団は大宮氷川神社に近い周辺に居を構えて、

 彼等の氏神である荒脛神を境内の末社として祭祀したものであろう。

  古い街道沿いの祠には、

 草鞋(わらじ)を懸けてあったのを多く見かけたが、

 旅人が草鞋を履きかえる時に、

 旅の無事と足を保護する草鞋を懸けて祈願したのと、

 同様の意味が含まれているのであろう。

 近年はこのような祠を見かけなくなり

 忘れ去られようとしている伝説・伝承は、大事にしたいと思い

 「荒脛神社」の祭祀を取り上げて私論を述べてみた。

 『参考文献』 著者敬称略

 隠された古代     1985 近江 雅和 彩流社
  (アラハバキ神の謎)『東日流外三郡誌』を主に 

 鉄の民族史      1986 窪田 次郎 雄山閣

 風と火の古代史    1992 柴田 弘武 彩流社
  (よみがえる産鉄民)

 古代の鉄と神々    1997 真弓 常忠 学生社

 まつり        1996 大場 磐雄 学生社
  (考古学から探る日本古代の祭り)

 古代出雲と斐伊川   1995 和久利康一 新泉社
  (日本神話のぐるさと)

 古代出雲朝は実在した 1995 安達 巌  新泉社
  (最古の統一王朝を探る)

 出雲神社の謎を解く  1959 沢田 巌  新泉社

 銅剣三五八本     1986 島根県簸川町編
  (銅鐸六個・銅矛一六本の謎に迫るシンポジューム
   古代出雲のロマンを求めて)

 荒神谷遺跡と青銅器  1995 島根県文化センター
  (科学が解き明かす荒神谷の謎)
 
 『対談』銅鐸     1994 森浩一:石野博信 学生社

 村の中の古代史    2000 野田 嶺志 岩間書院
 
 《Key Word》

 荒脛神社
 荒脛神社・画像

 『江戸名所図会』

 新編武蔵風土記稿

 新編武蔵風土記稿・画像

 東日流外三郡誌
 東日流外三郡誌・画像

 鉄の口琴
 鉄の口琴・画像