2014年1月28日火曜日

「あらはばき」と神社(1)


 「古代史ブログ講座」開講にあたって
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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》 

 諏訪大社
 諏訪大社
 Wikipedia:氷川神社
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 武蔵一宮:氷川神社・境内案内

 出典:記紀解体・133~144頁:近江雅和著
   :アラハバキ神と古代史の原像

 『アラハバキの残影』

 「神社に残るアラハバキ」

  かっては、

 はるか弥生の初期に渡来した部族の最高神アラハバキの信仰も、

 その後の『記・紀』の影響や、仏教による変容ですっかり影をひそめ、

 江戸時代には何神であるかは不明になってしまった。

 わずかに古代氏族が王権の抹殺をのがれるために

 密かに今日までその伝統を守りつづけたほかは、

 かろうじて文献にのみその名をとどめるか、

 あるいは末社でひそかにいきつづけるのを

 散見できるに過ぎない有様である。

 それらを筆者が調べたものに前著『隠された古代』を

 ご覧なった読者からのご教示を加え、ここにまとめておきたい。

  かって中山太郎氏は、

 「アラハバキ神は天孫族がわが国に渡来する以前に、

  先住民族によって祭られた神、すなわち地主神である」

 という鋭い指摘をしたが(『日本民俗学②』大和書房)、

 ついにその発生源の追求までは及ばなかった。

 神社や寺院関係にはアラハバキの名こそ消えてしまったが、

 弥生文化といえば稲作と同時に製鉄の始まりであるから、

 アラハバキ神は製鉄とも密接な関係があることを無視する訳にはいかない。

 こうした観点から見ると信仰の根強さは各所に受け継がれ、

 その祀り様や、草鞋、鉄製のゲタを供えたり、

 あるいは目の神様になっているなどの習俗からみて、

 元の神が変容していることを示す例が数多く発見できる。

 それらの多くは

 本殿や本堂ではなく、末社・摂社に追いやられているので注意したい。

 今後もそういった痕跡を丹念に拾い上げていきたいと思っている。

 《参考》アラハバキ神と謎の古代史「記紀」 7「あらはばきと神社」
  
     ひーさんの散歩道

 アラハバキの信仰は弥生時代のごく初期、

 あるいは縄文時代のごく終わりの頃に渡来したものである。

 そしてその原点が南アラビヤのヤマン地方にあり、

 アラハバキの語源は最高の神の意味である。

 古代アラビア語の「アラハバキ」からきている。

 かつて、

 中山太郎氏は

 「アラハバキ神は天孫族が、我が国に渡来する以前に、

  先住民族によって祭られた神、すなわち地主神である」

 という鋭い指摘をしたが(日本民族学②大和書房)

 それ以上の追求は出なかった。

 私も以前そう思っていました、

 またアラバキ族とかアラハバキ族という言葉も耳にします。

 おそらくこの信仰を持っていたものを総称して表していた言葉なのでしょう。

 時代が下れば、これも否定はできないと思います。

 しかし、ここで述べているのはどこから発生したのかを追求していますので、

 もっと遡って考えましょう。

 「南アラビヤからインドへ」

  南アラビヤからインドに入って住み着いた一団は、

 その後アーリア系の侵入で森林広野に住んでいたので

 「アーラヴィ」(林住族)と呼ばれたことが、

 紀元三世紀のインド・マウリア王朝の宰相カウテリアの著書「実利論」に出てくる。
 「インドから中国へ」

  アラハキ神はシルクロード経由で雑密僧によって

 中国西北部の?奴に入った。

 中国本土では三世紀の三国時代(220~280)

 西域の雑密僧によってアラハバキを含むプレ雑密僧文化が「呉」に入り

 江南を中心として中国全土に広がった。

 8世紀の唐代(618~907)

 密教教典の訳出が行われた。

 この時代には、音写ではなく義訳による漢訳教典が続々と現れて、

 「元帥」「大元帥」の形になって行きました。

 この漢訳教典は宮廷に設けられた内道場で、

 ?命により秘訳されたということは、

 皇帝以外には行うことが許されない秘法であったことを物語る。

 この時点でアラハバキ神の性格は護法神から

 国家鎮護の「大元帥明王法」として皇帝独占の秘法へと変わった。

 (通常大元帥明王は「帥」の字を読まず

  「だいげんみょうおう」とよんでいる)

 「中国から日本へ」

 9世紀になると中国で漢訳された密教経典や道教と習合した

 大元帥明王法は遣唐使により日本へもたらされることになった。

 小栗栖(オグルス)

 承和4年(837)に請来(しょうらい)空海の奏上、

 仁寿元年(851)以降、

 朝廷では二つの密教秘法が毎年正月八日に行われた。

 一つの「御七日後修法」(ごしちにちのみしほ)と呼ばれ

 天皇の玉体護持と国家安穏を祈る。

 真言密教の秘密法で、

 もう一つが「大元帥御修法(だいげんのみしほ)」で

 怨敵、逆臣の調伏、国家安寧を祈る大法であった。

 ※古語辞典では=「大元帥の法」だいげんーのーほふ

 陰暦正月八日から~十四日までの七日間、冶部省(じぶしょう)で

 国家鎮護のために大元帥明王と本尊として行った大法会(ほうえ)

 《Key Word》

 記紀解体・近江雅和著
 隠された古代

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