2014年1月19日日曜日
千鹿頭神へのアプローチ(1)
「古代史ブログ講座」開講にあたって
Matのジオログ
諏訪大社
諏訪大社
『武蔵一宮:氷川神社』
Wikipedia:氷川神社
Yahooh検索『武蔵一宮:氷川神社』
武蔵一宮:氷川神社・境内案内
出典:野本三吉・「諏訪信仰の発生と展開」古部族研究会編188~200頁:永井企画
千鹿頭神へのアプローチ(1)
Ⅰ.洩矢神から千鹿頭神へ(1)
ぼくの家の近くに「ミシャグジ」があるなどということを、
これまで考えたことがなかった。
ところが、驚いたことに「ミシャグジ」はあったのである。
二月の初旬、土地の古老、石川伊之助さん(78才)と話しているうち、
まさかあるとは思わず「ミシャグジ」のことを聞いてみたのであった。
「あゝ、ミシャグジ様なら、田谷の臼井さんの裏山にありますよ。
オシャモジさんと言ったりね。
咳の神様といったりしますけど、
小さい頃、オヤジから聞きましたよ。」
いとも簡単にミシャグジの存在が確認されたのである。
ぼくの住んで家は、東海道五十三次で有名な「戸塚の宿」のすぐ近く、
谷戸(ヤト)が多いので「多戸」から「谷戸」になったところである。
このあたりでも、小高い丘陵にある畑からは、
旧石器や縄文前期にあたる諸磯式土器が出土したり、
縄文後期、晩期のものでは、加曾利B式土器(原宿)や、
東北の亀ヶ岡式土器と区別するのが難しいといわれた
桂台式土器(公田町桂台)が出土したりしている。
(「戸塚区郷土誌」「戸塚の歴史散歩道」)
しかし、ミシャグジ神とは、
ストレートに結びつくと思っていなかったのである。
その日の午後、ぼくは、早速、まだ幼い二人の息子の手を引いて、
県道添いの山中にあるというミシャグジを訪ねたのであった。
道路から少しばかり山に入ると、細くて急な山道にぶつかる。
今は、人も通らぬ忘れられた裏道だが、
その山道は昔「鎌倉往還街道」と言われていた。
この牛坂を少し登った右手に小さな祠があった。
巨木の下の小祠は、臼井家の氏神になっていたが、
祠の中に「平たい石と尖った石」が重ねて置いてあり、
ミシャグジであることが確認できた。
近くには「九ツ井戸」と呼ばれる「泉」があり、
関谷川という川も流れていたらしい。
十数年前に郷土史家たちが「古蹟」保存のために建てた白塗りの枠が、
牛坂の入口に立っており、
そこには「御社守様、関谷川の堰を守った神」と書かれてあった。
「御社守様」という文字は、ミシャグジでは、初めて出合う当て字だが、
ミシャグジ神であることには間違いなかった。
石川伊之助さんは、関谷川の「関」の字から「咳」の神と呼ばれたと
父親から聞いたと話してくれたが、
一般には、
ミシャグジ神は「子供の守護神」になることが多く、
風邪や咳、夜泣き、つんぼ等などの神様と伝承されているので、
そうした流れの一つと考えてよいのだろと思う。
そしてまた、古村と古村をつなぐ古道の要所要所にミシャグジは祭られ、
古代人の物交(あきない)や塩の運搬路として利用されたと思われ、
そのミシャグジ神の祭られた高台からも、
あたりの様子が一望のもとに見渡せるのであった。
中部高地を中心として、
東日本全体に分布しているいわれるミシャグジ神、
ぼくの身近な所に存在していたとしても、
さまざまの状況から考えれば、少しも不思議ではないのだが、
これまで、ミシャグジ神を、
このような形で身近に感じたことはなかったので、
この発見は、ひどく心踊ることであった。
そしてまた、古村と古村をつなぐ古道の要所要所にミシャグジは祭られ、
古代人の物交(あきない)や塩の運搬路として利用されたと思われ、
そのミシャグジ神の祭られた高台からも、
あたりの様子が一望のもとに見渡せるのであった。
中部高地を中心として、
東日本全体に分布しているいわれるミシャグジ神、
ぼくの身近な所に存在していたとしても、
さまざまの状況から考えれば、少しも不思議ではないのだが、
これまで、ミシャグジ神を、
このような形で身近に感じたことはなかったので、
この発見は、ひどく心踊ることであった。
このような形で、各地の古村や古道添いに散在している
ミシャグジ神の、いわば中心になるのは、
茅野市高部にある御頭総御社宮司社である。
この総御社宮司社は、神長官守矢の邸内にあり、
ぼくも何度か訪ねたことがあった。
神長官守矢氏は、
建御名方がまだ諏訪へ侵入してくる以前から、
この地方に土着していた国津神「洩矢神」の末裔といわれ、
このあたりは古代には
「たけいの里」とか「鷹部屋」とか呼ばれていたという。
この土着神は「洩矢」は狩猟の神であり、
狩猟や漁労に従事しながら、
山中を自由自在に駆け巡っていたのである。
いわば、山岳狩猟民族の祖ということにもなる。
しかし、建御名方命を中心とした、稲作農耕民族の侵入により、
闘いに敗れた洩矢民族は、徐々に新興勢力に融合され、
やがて「大祝」-「神長」という構造の中に組み込まれ、
諏訪神の体制が出来上がってゆくのである。
けれども、土着神としての登用せねばならなかったし、
洩矢民族は、「神長」職を受け継ぎながら、
代々「一子相伝」の秘法を伝え、
口づたえでその民族的な系譜と神事を残しつづけたのであった。
古来、神長の「一子相伝」「大蟇目の神事」他、
同家の「御口伝」は、神長祈祷殿の中において、
真夜中、火の気のないところにおいて、
幼少の子に血詞(のっと)として一対一の伝授であったため、
その口伝血詞は外にもれることなく七十六代神長実久氏に伝えられ、
明治までつづいたのであった。
しかしながら、明治元年の神仏分離、同四年の世襲神官廃止があり、
更には明治六年、家宝の御宝印・御頭お占法用具・鏡・太刀等が
上社に奉納され、かろうじて「佐奈伎」の鈴一連(六個)が
残ったありさまであった。
そして、決定的なのは、
明治八年の新律令による祈祷殿取り壊しである。
《Key Word》
ミシャグジ神
ミシャグジ神画像
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