2014年1月23日木曜日

千鹿頭神へのアプローチ(3)


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 出典:野本三吉・「諏訪信仰の発生と展開」古部族研究会編188~200頁:永井企画

 千鹿頭神へのアプローチ(3)

 Ⅱ.宇良古山の千鹿頭神(1)

  昨年の8月5日。

 ぼくは夕暮の松本の街を歩いていた。

 「千鹿頭神」の行方が気になってならなかったぼくは、

 千鹿頭神が、地元の宇良古比売を娶って生活していたといわれる

 宇良古山をめざしてやって来たのである。

 松本には、友人の長野秀人さんがいる。

  教員生活をやめ、さまざまなの職業を経験して、
 
 今は「庭師」として独立している人である。

 もともと自然相手の仕事が好きだったという長野さんは、

 名刺に「一木一草一石に生命を宿す庭師」と書き込んでいる。

  ハッタリでも何でもなく、彼は本気でそう思い、
 
 実践している庭師であった。

  その夜、ぼくは、長野さんと一緒に松本市の地図を拡げ、

 宇良古山を探した。

  しかし、宇良古山の地名はない。

 里山辺区のはずれ、

 薄川と逢初川の間あたりに「千鹿頭山」の文字が見つかる。

 標高は657.2メートルである。

 そして、すぐ近くに「千鹿頭池」が見つかり、

 宇良古山の文字はなくとも、

 ここが千鹿頭神と何らかの関係がある場所に違いなかった。

  翌朝、長野さんの車で送ってもらい、

 目指す「千鹿頭神社」の朱塗りの鳥居の前に立った。

 鳥居の額には黒地の上に金文字で「千鹿頭大明神」とある。

 何度か立て替えられたものには違いないが、

 期待していたイメージとはどことなく違ってしまった。

  鳥居をくぐると、すぐ右手が」、かなり広い「千鹿頭池」。

 一面、みごとなほどの緑色で噴水が吹き上げていた。

 養魚でもしているのか、

 そのまわりに沢山の魚の群れがピチピチとハネているのが見えた。

 左手には、昭和7年9月に建てられた立派な「千鹿頭神社碑」がある。

 そこには、宮地直一博士の筆になる説明文が刻み込まれている。

 「郷社千鹿頭神社は、

  遠く平安朝初頭天元年次の創祀に係わる旧神田村の氏神にして、

  寛喜二年、神幸式典を興し、

  諏訪本宮との関係を密接ならしめ……云々」

  何度か読み直してみたが、

 「宇良古比売」や「洩矢神」との関係は全く記述されてはいない。

 ようやく強くなった夏の陽を受けながら坂道を登り、

 頂上に着くと、そこは平らで、藁葺きの社が並んでいる。

 全てが新しく作られたような感じがする。

 グルグルとまわって裏側に出ると、

 頂上の一番奥まったところに小さな祠があった。

 片一方は石で出来ており、一方は木造であった。

 二つ並んでいるのが妙であったが、

 これは、あとで、この二つの小祠の真ん中を、

 村と村との境界線が走っているのだとわかった。

 一方は、東筑摩郡中山村神田の千鹿頭神社、

 そして、もう一方は、

 東筑摩郡里山辺村森の千鹿頭神社というわけだ。

 もともと松本領で小笠原氏が治めていたが、

 徳川期に、神田村は諏訪領分割されたのだと言う。

 住吉は、郡内三十余村の鎮守といわれた千鹿頭神社だが、

 長い歴史の風雪の中で、

 原型もわからなくなってきているのかもしれない。

 山を降り、近くの食料品屋で、千鹿頭神社の由来を聞いてみる。

 女主人は、自分はよくわからないが、

 土地の古老で詳しい人がいるので聞いたらどうかと、

 中村己年人さん(85才)を紹介してくれる。

  店から五十メートルほども行った

 右手に中村己年人さんのお宅はあった。

  何度か声をかけると、中から声があって、中村さんが顔を出した。

 昼間なので家の人は皆、

 農作業に出ていて、中村さんは横になっていたらしい。

 寝巻き姿の中村さんと、ぼくは玄関に腰をおろして話しはじめた。

  多少耳の遠い中村さんは、

 話が郷土史のことだとわかると熱心に話し始めるのだ。

 「昔は、このあたりには鹿がたくさんおって、

  作荒しをしたもんで、鹿を退治して、

  その頭を神様にそなえたもんだったよ。」

 鹿狩をし、その頭を神社に供えたとすれば、

 狩猟民の末裔だといえないことはない。

 中村さんの説明によれば、徳川時代には、

 このあたりの民家は四十軒ほどしかなかったという。

 明治時代になって八十軒。

 そして、今でも五百軒位だという。

 だとすれば、時代を遡ればのぼるほど人口も家数も少なくなるし、

 千鹿頭神が流れて来たとすれば、

 わけなく合流できたろうという気はする。

 中村さんの記憶では、四、五人の鉄砲打ちが、

 しばらく前までいたけれど、

 今では猟を専門とする人はいなくなってしまったらしい。

 狩猟文化の伝統は、かなり以前に消えてしまったのであろう。

 「この山はな、昔は"鶴ケ峯"と言うとったな。

  あるいは"大坊主山"とも言ったな。

  "宇良古山"というのは、

  聞いたことがあるような気はするが、

  ハッキリは覚えていない。」

 「池の方はな、徳川二代将軍の時、

  神田村が諏訪領になってしまって、

  勝手に里山辺の方から水が引けなくなって、

  池を拵えたもんじゃな。

  それで、はじめは、

  "和合の池"とか"しょうづま池"とかよんでおった」

 「千鹿頭様のお祭りは、

  今から千年も前の天正年間にはじめたと聞いているが、

  四百年以上前に焼けてしまい、

  その後、徳川時代になって建てられまで二百年位は

  お社がなかったそうだ。
 
   小さい頃は、長い列をつくって山に登って湯立てやら、

  踊りを踊ったこともあった。

   昔は"白山大権現"様があって、ワシは、そのお社のほうが

  千鹿頭様より古いと聞いたこともあったな。

  山の南のはじの方からは、よくメクラ水晶が出て、珍しがられたよ。

   祭神の千鹿頭様は、建御名方命のお子さんで、

  千鹿頭命という方がおられて、

  その方をまつったと聞いておるがな。」

  恐らく、中村さんは、

 この土地では、最も昔のことを知っている人なのだろう。

  けれども、中村さんからも、

 洩矢神とのつながりを思わせるような話を聞くことはできなかった。

  ところで、千鹿頭神が、

 その土地の娘と結婚したという伝説や言い伝えは、松本だけではない。

 有名な話では「ちかと神は、赤城神の妹を嫁にもらった」とぴうのがある。

 赤城神は、山岳信仰、原始狩猟神として知られており、

 それを裏書きするように、赤城山麓には、

 二十を越える「ちかと神社」が散在しているのである。

  こうした事実を考えると、

 出雲民族と言われる建御名方、農耕民族に、

 全てを譲って諏訪の地を離れた千鹿頭神(民族)は、

 一方向にだけ進んだのではなく、いくちかのグループに別れ、

 自らを受け入れてくれる山岳地帯を求めて、

 彷徨したのではないか、という気がしてくる。

 宇良古山に移った千鹿頭神もその一つだが、

 建御名方の勢力が及んできたので、

 やがてその地も離れて行ったのではなかろうか。

  そう考えると、長野を離れて、

 もう少し広く千鹿頭神の跡を追ってみたくなった。

 《Key Word》

 千鹿頭山・画像

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