2014年1月25日土曜日
荒脛神社について
「古代史ブログ講座」開講にあたって
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『My ブログ』
《考古学&古代史の諸問題》
《参考:年表・資料》
諏訪大社
諏訪大社
『武蔵一宮:氷川神社』
Wikipedia:氷川神社
Yahooh検索『武蔵一宮:氷川神社』
武蔵一宮:氷川神社・境内案内
出典:岩井茂・「荒脛神社について」埼玉県郷土文化会
:埼玉における郷土史研究会雑誌・埼玉史談第48巻第1号
『荒脛神社について』
荒脛(あらはばき)神社は、氷川神社の摂社として、
足立郡の大宮台地沿いに祭祀されている。
川口市戸塚・芝宮根、浦和市内谷・田島・西堀・白鍬、
大宮市島根・並木(三橋町)・上内野(宮前町)・内野本郷・櫛引・
上加(日進町)・ 中釘・中川や上尾市戸崎・今泉、
桶川市菅谷・小針領家、伊奈町小針内宿などで、
この中で氷川神社の摂社でないのは
川口市芝宮根の羽尽(はぞろ)神社境内に祭祀されているのみである。
その祭祀の中心は、大宮氷川神社境内に祭祀されている
「門客人社」となっている荒脛社であるが、
『江戸名所図会』には境内摂社として「荒波々幾社」が
男体社・女体社の東側に祭祀されているのが描かれているのが見られる。
武蔵国には他の地域の多磨郡にも幾つか
荒脛社を祭祀していた形跡は見られるが、
大宮台地沿い集中して祭祀されているのは何故だろうか?、
この荒脛神に付いてはいくつかの説があるが
『東日流外三郡誌』による
産鉄民族説、
アビヒコ・マガスネヒコの津軽逃亡説・ダイダラボッチ伝説などである。
荒脛(あらはばき)とは昔の旅人や農民が耕作する場合に着用した
脛当(すねあて)の脚絆のことで、
全国的に見られるない同社が何故か足立郡のしかも大宮氷川神社周辺の
古入間川(荒川)沿いの自然堤防微高地や
大宮台地の縁辺に祭祀されているのである。
これは氷川神社と切り離せない関係や
問題は潜んでいるのではないかと疑念を持ち、
丹念に鎮座してる地理地形を踏査検討した。
産鉄民族の移動説も興味のそそられる提言であるが、
大宮台地の西側には上古代には
利根川・荒川が流れた事は地質学で解明されているが、
前記の祭祀地は台地の裾や河川敷に隣接する所の
氷川神社摂社に祭祀されていることに気付いた。
産鉄民族の移住説もあながち無視出来ないので、
ここで氷川神社の祭祀に付いて述べて見よう。
旧武蔵国の埼玉県・東京都・神奈川県に編入された
久良伎郡などには合計二百二十二社が祭祀され、
武蔵国以外でも、近世にに六社が祭祀されているが、
その三分の一は足立郡に祭祀されている事実は
否定出来ないのである。
河岸段丘での砂鉄採取に適していた
土地であることは否めない事実だが、
鍛冶ヶ谷戸とか言う地名が意外と残され、
大宮市奈良町(鍛冶村)や、吉野原(吉野町)、
佐知川には金山神社が祭祀されている事と、
鍛冶村・吉野村は加茂川に面していて、
佐知川は古入間川(荒川)流跡に面しているので、
砂鉄採集には好適地と想定されるが、
大宮氷川大社は古来より毎年十二月十日には、
火祭りを一大神事と江戸時代初期まで残されていた。
『新編武蔵風土記稿』には、火祭跡として
「本地堂なる東の方なるわすかの芝地なり、
昔毎年十二月十日ここにて火祭と云神事ありしが
延宝三年(1675)神主氷川内記(ひかわないき)が上京して、
神祇伯の吉田家と計りて清祓の祭礼に改めた」と記している。
出雲大社では同社資料館に、
寛文八年(1668)作成の古社図が展示してあり、
明らかに「門客人社」と記載されているのを
四年前訪れた時に実見している。
『更科日記』の著者、
上総介菅原孝標(すがわらたかすえ)の娘十三歳が、
平将門の乱より百十五年後に氷川神社を訪れて見たのは、
ははその森(神社の社叢のこと)や、
氷川大社が「平将門の乱」で焼け落ちた社跡の礎石「火吹屋」
の小屋と、番人の姿であり、延宝三年以後は、釜でお湯を沸かして、
柄杓で社前で振り撒く神事祭礼に代えている。
十二月十日の大湯祭りは「湯火祭(とうかまち)」となっている。
この時より境内に祭祀されていた
「荒脛巾神社」を門客人社と改め、
手摩乳(てなずち)足摩乳(あしなずち)の二神を配祀したと記されている。
県立大宮球場改築の際に遺跡調査が行われて
『氷川神社東遺跡調査報告書』によると、
火祭りの跡や製鉄の際に出る鉄滓(かなくそ)や小さな仏像、
「鉄の口琴」が出土して、
世界口琴研究学会で最古のものと判定されているが、
このような仏像・口琴を作れる技術集団が
氷川神社境内付近に居住していた事を示す重要な資料でもある。
『古代の鉄と神々』『風と火の古代史』『隠された古代』によれば、
スサノオノミコトの八岐大蛇(やまたのおろち)の神話は、
現代史学ではスサノオノミコトは、
縄文時代末期に産銅の技術を持った人達が朝鮮半島から渡来し、
弥生末期には二次的に産鉄・製鉄技術を持った集団の渡来で
鉄文化の時代になったので、
弥生後期の伝承を残すのがこの火祭りであろう。
『東日流外三郡誌』の産鉄民族説は肯定できるが、
砂鉄採集と製鉄集団の首長がスサノオノミコトで
砂鉄採集民族は製鉄技術者に隷属して、
東武蔵国の足立郡の河川や台地の縁辺に居住して
砂鉄の採集に従事したのであろう。
この時に台地の崖や川に入るの足を保護するのは
強靭な脛当ての脚絆(きゃはん)すなわち荒脛(あらはばき)
スサノオノミコトを出雲国の産土神(うぶすながみ)簸川の神として、
足立郡を拠点に多く祭祀されている理由でもあり、
砂鉄採集集団は大宮氷川神社に近い周辺に居を構えて、
彼等の氏神である荒脛神を境内の末社として祭祀したものであろう。
古い街道沿いの祠には、
草鞋(わらじ)を懸けてあったのを多く見かけたが、
旅人が草鞋を履きかえる時に、
旅の無事と足を保護する草鞋を懸けて祈願したのと、
同様の意味が含まれているのであろう。
近年はこのような祠を見かけなくなり
忘れ去られようとしている伝説・伝承は、大事にしたいと思い
「荒脛神社」の祭祀を取り上げて私論を述べてみた。
『参考文献』 著者敬称略
隠された古代 1985 近江 雅和 彩流社
(アラハバキ神の謎)『東日流外三郡誌』を主に
鉄の民族史 1986 窪田 次郎 雄山閣
風と火の古代史 1992 柴田 弘武 彩流社
(よみがえる産鉄民)
古代の鉄と神々 1997 真弓 常忠 学生社
まつり 1996 大場 磐雄 学生社
(考古学から探る日本古代の祭り)
古代出雲と斐伊川 1995 和久利康一 新泉社
(日本神話のぐるさと)
古代出雲朝は実在した 1995 安達 巌 新泉社
(最古の統一王朝を探る)
出雲神社の謎を解く 1959 沢田 巌 新泉社
銅剣三五八本 1986 島根県簸川町編
(銅鐸六個・銅矛一六本の謎に迫るシンポジューム
古代出雲のロマンを求めて)
荒神谷遺跡と青銅器 1995 島根県文化センター
(科学が解き明かす荒神谷の謎)
『対談』銅鐸 1994 森浩一:石野博信 学生社
村の中の古代史 2000 野田 嶺志 岩間書院
《Key Word》
荒脛神社
荒脛神社・画像
『江戸名所図会』
新編武蔵風土記稿
新編武蔵風土記稿・画像
東日流外三郡誌
東日流外三郡誌・画像
鉄の口琴
鉄の口琴・画像
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