2014年5月28日水曜日

モリアの丘 HR-Mō-riah:坂戸市・毛呂山町(2)

 「古代史ブログ講座」開講にあたって
 Matのジオログ
 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 出典:歴史学講座『創世』:歴史研究家「小嶋 秋彦」

 課題:武蔵の坂戸・鶴ヶ島の秘密
    ―「浅羽」は旧約聖書人身御供祭事の「イサク」―

 モリアの丘 HR-Mō-riah:坂戸市・毛呂山町(2)

 麻羽郷:あさば[古代]平安期にみえる郷名。入間郡8郷の一つ。

  「阿路波」(高山寺本)とも「安佐波」(刊本)とも訓む。

  現在の坂戸市大字浅羽を中心とする一帯に比定する説(新編武蔵・地名辞書)。

 浅羽郷[中世]南北朝期からみえる郷名。入西(にっさい)郡のうち。

  人名・武士団名としては

  「吾妻鏡」「七党系図」などにすでに散見される武蔵七党児玉党の一氏族。

  徳治2年(1307年)在名の万福寺板碑には浅羽行政の名がみえ.~。

 浅羽郷・浅羽荘[近世]「新編武蔵」にみえる郷・荘名

 浅羽(坂戸市)高麗川右岸の台地・低地に位置する。

  「和名類聚抄」麻羽郷の遺称地に比定され、

  当地内には県文化財の万葉遺跡浅羽野、

  弥生後期の散布地上浅羽遺跡、

  古墳後期の浅羽古墳群、時期不明の萱方城跡がある。

 大家(おおやけ)郷 「和名類聚抄」所載の郷。

  同書高山寺本に「於保夜計」、

  東急本・元和古活字本に「於保也介」、

  各博本に「ヲホヤケ」の訓がある。

  「万葉集」巻一に

  「入間道(いりまぢ)の大家が原のいはゐ蔓(づる)引かばぬるぬる吾にな絶えそね」

  とみえる。

  「大日本史」国郡志、「日本地理志料」「大日本地名辞書」 は

  現大井町から富士見市にわたる一帯とし、

  「風土記稿」「埼玉県史」は現坂戸市の森戸を中心とする一帯とする。

 大谷郡[近世]「新編武蔵」にみえる郷名。

  足立郡のうち中世末期から用いられたとみられる。

  属した村は大谷本郷村のみ。現在の上尾市辺り。

 安刀郡[古代]平安期にみえる郷名。入間郡のうち。

  「和名類聚抄」入間郡」8郡の一つ。

  現在の川越市大字上戸、的場中心とした一帯に比定する説(地名辞書)と

  所沢市一帯とする説(旧県史)がある。

  「和名類聚抄」所載の郷。諸本とも訓を欠く」がアトであろう。

 山田郷「和名類聚抄」所載の郷。同書高山寺本に「夜末太」、

  東急本・元和古活字本に「世万多」の訓がある。
 
  「大日本地名辞書」「埼玉県史」は現川越市の仙波・山田一帯とし、

  特に異説はない。

 山田郷「近世」「新編武蔵」にみえる郷名。入間郡のうち。

  属した村々は県下では北秋津、上新井、南入曽の3ヶ村。

  現在の所沢市、狭山市の辺り。

 広瀬郷「和名類聚抄」所載の郷。

  同書高山寺本・東急本・元和古活字本に「比呂世」、

  各博本に「ヒロセ」の訓がある。

  嘉祥3年(850年)6月3日

  広瀬神が官に列せられ(文徳実録)、式内社に「広瀬神社」がある。
 
  現狭山市北部・西部から飯能市にかかる地域に比定される。

 広瀬郷<狭山市、飯能市>[古代]平安期にみえる郷名。入間郡のうち。

  「和名類聚抄」入間郡8郷の一つ。訓みは比呂世。

  郷内には式内社と伝える広瀬神社があり、

  社伝によると日本武尊が東征の途中、この地に立ち寄り、

  当地が大和国広瀬郡川合の広瀬神社の地形によく似ていることに気づき、

  ここに祀ったと伝えられているが、

  広瀬郷は

  現在の狭山市北部及び西部から飯能市に及ぶ一帯の地域に比定される。

 坂戸:高麗川・越辺(おっべ)川右岸の低地・台地に位置する。

  地名は平安期の康平年間(1058~1065年)に当地に位した

  坂戸判官教明に由来するというが、不詳(新編武蔵)。

  当地内には縄文・古墳・奈良・平安期の集落跡の芦山遺跡がある。

 森戸:もりど(坂戸市)当地内には室町期の大家城跡がある。

  [中世]戦国期にみえる地名。入西(にっさい)郡のうち。

 北大塚(坂戸市)

  当地内には南北朝以降のものと推定される大塚屋敷(大塚館跡)がある。

 小山(坂戸市)当地内には縄文中期の集落跡、中小遺跡、古墳後期の東山古墳群、

  坂戸市102~104号古墳、平安期のものと推定される三福寺館跡があり~。

 入西荘(坂戸市)「新編武蔵」にみえる荘名。入間郡の内。

  中世末期頃から用いられたと思われる。

  属した村は堂山村のみ。

  現在の越生町の辺り。

2014年5月20日火曜日

モリアの丘 HR-Mō-riah:坂戸市・毛呂山町(1)

 「古代史ブログ講座」開講にあたって
 Matのジオログ
 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 出典:歴史学講座『創世』:歴史研究家「小嶋 秋彦」

 課題:武蔵の坂戸・鶴ヶ島の秘密
    ―「浅羽」は旧約聖書人身御供祭事の「イサク」―

 モリアの丘 HR-Mō-riah:坂戸市・毛呂山町(1)

 坂戸:サカド,סהַצהתַה,ShħTH,shachtah (ユダヤ教の掟に従った)屠殺

              ,סהַצהַת,ShħT,shachat (ユダヤ教の掟に従った)屠殺する
    
       ○千葉県袖ヶ浦市坂戸市場の坂戸神社と同様。

    「続日本紀」霊亀2年(716年)5月条。

    「上総」の「高麗人」が移ってきたもの。

      ○旧約聖書「創世記」第22章 

    アブラハムが神の指図に従い、長男イサクを連れ、

    モリアの頂、岩座でイサクを神に献げるため芝に掛け、

    刀で彼を殺そうとして刀を振り上げた瞬間神の声がして、

    イサクの屠殺が止められた。

    神はアブラハムが神の掟に従う者であること覚ったという物語。

       ○袖ヶ浦市の坂戸神社では南北朝期まで

    人身御供神事が行われていた伝承がある。

 浅羽・麻羽 「和名類聚抄」刊本の訓「安佐波」

        "イサク"(Eng.)Isaac

             (Heb.),יִתסצהכ,YTsħK,yitschk イサク


       「和名類聚抄」高山寺本「阿呂波」

        "アロハ"アブラハム(Eng.)Abraham 

                 (Heb.),ַברַהַמ,ABRHM,abraham

 大家:おおやけ「オオカ」=「オオガ」, ַונ-גוִ,AVN-GVI,avn-gvi 

    〔丘(小山)-岩石(石)〕岩の丘=モリア山の磐座(現)岩のドーム

    但し「家」は「冢」の誤記とみた方が妥当性がある。「冢」=塚

    大家神社(坂戸市厚川)厚川地区の北隣りに「北大塚」地区が現在あり、

    石上神社が鎮座。

 森戸:もりと「モリ-ヘ」,הר־מָריַה,HR-MRYH,Hr·Moryah

    〔山-モリア〕モリアの丘(山)、戸森(深谷市の地名)

    森戸神社(坂戸市森戸) (旧名)国謂地祇神社

     国謂地祇神社「延喜式」神名帳 武蔵國入間郡「ヰチ」「タニヌマ、クニツカミ」

      國:「クニ」(Heb.),צהַנַנ,ħNN,chanan 赦す、赦免する、恵む、授ける。

              ,צהַנינַה,ħNYNH,chanynah 赦し、赦免、恩赦。

      謂地祇:「イツァク」>「イサク」,יִתסצהכ,YTsħK,yitschk イサク

       ○「クニノ‐イサク」:〔赦免‐イサク〕イサクの赦免

      ※イサクの供儀においてイサクは最後に赦された。

 城山(坂戸市多和目)

  「シロ」(Heb.),סֶלִַ,SLI,selai 岩、「城山」=岩山 岩国神社(多和目地区内)

 鶴ヶ島(市)鶴

  「ツル」(Heb.),צהר,TsVR, 大きな岩、岩の神

   ◎島「シマ」「チャー」(Grk.)θυμελη 祭壇、火を燃やす所 thymele

   「ツル-ケ-シャ」:岩の祭壇 モリアの丘の頂の磐座を表わす。

   ◎「ケシマ」,הַסהֶמ,,hashem 神「ツル-ケ-シャ」「岩-神」神の岩

  鶴明神社(坂戸市森戸)TsVR:岩、

   「カクメイ」,צהַשמִַ,ħXMH,chaxmai 智恵[ヤハウエェ神の象徴]

 毛呂山(町名):「モリアの山」※毛呂山:(毛呂郷+山郷)

 市場(毛呂山町),תסֻר,TsVR,tsur 大きな岩、岩磐、(岩なる) 神、市場神社

 羽折(鶴ヶ島市)

  「ハオレ」,,H.YRAH, [主・見る:主は見る]旧約聖書第22章14

  ,יהוה=ה ' ,YHVH,(ヤハウェ=神・エホバ=神)

    ,הרים ראו את אלוהים,Hr.YHVH YRAH, 「主の見られる山」

 脚折:スネオレ(鶴ヶ島市)〔アシオレ〕
 
  ※地名として語義は「臑」が最も適当。

   但し(Heb.)の音写として「脚:あし」が相応しい。

  膝折〔ヒザオレ〕(朝霞市)

   「アシ」,הַסהֶמ‏,HShM,hashem 

   ※この用語は,,YHVH, を直接に呼ばないための用語

    ..〔YHVH YRAH〕は

    ..〔HShM YRAH〕:「アシオレ」と呼称される。

  ○臑折 戦国期に見える地名。 

   脚折 江戸期から明治22年までの村名、その後は地区名。

   「臑:スネ」

     犠体の肢の肩に接する部分。生贄の前足の上部。羊豕の前脚の上部。

  ※アブラハムAbrahamは

   イサクの替りに主(神)の備えられた小羊(雄羊)を犠牲に献げた。

   その際、儀礼(サカト:שׁכט shakat)として雄羊の前脚(臑)を縛りあげた。

    ○日本聖書において「イサクの燔祭」と訳されている

   אני קושר את יצחק 〔イサクー足を縛る〕は「イサクを縛る」の語義である。

   ,ִַכֶדַה,IKDH,iakedah 燔祭用の動物の足を縛ること。・自己犠牲、献身、殉教

  ※「鶴ヶ島」名は脚折村の字名より採られた。

   つまり鶴ヶ島はイサクの燔祭の磐座」の名称。

  ◎卒土神社 

   ①石舞台
   
   ②袖ヶ浦

   ③葛飾

   ④幸手、田宮・八海神社、「石塚」材が

2014年5月14日水曜日

旧約聖書「創世記」第22章14②


 「古代史ブログ講座」開講にあたって
 Matのジオログ
 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 出典:歴史学講座『創世』:歴史研究家「小嶋 秋彦」

 課題:武蔵の坂戸・鶴ヶ島の秘密
    ―「浅羽」は旧約聖書人身御供祭事の「イサク」―

 旧約聖書「創世記」第22章14②

 「聖書」現代訳、現代訳聖書刊行会 1983年

  それで、

  アブラハムはその場所を主が備えてくださったという意味で、

  "ヤーウエ・イルエ"と名付けた。

  それで今日でも人々は「主の山には備えがある」と言っている。

 「聖書」新共同訳、財団法人日本聖書協会 1987年

  アブラハムはその場所を"ヤーウエ・イルエ"

  (主は備えてくださる)と名付けた。

  そこで、人々は今日でも

  「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。

 「聖書」講談社 1980年 

  そしてアブラハムはその場所を

  「※主がおはからいになる」と名付けた。

  だから今でも

  「山の上で主がおはらかいになる」という言い習わしがある。

   ※この一節は不確実である。

  ここではギリシャ語に基づいて訳したが、

  ヘブライ語テキストでは「主の山の上に出現された」となっている。

 「聖書」新改訳、いのちのことば社 1981年

  そうしてアブラハムは、その場所を※アドナイ・イルエと名付けた。

  今日でも「主の山の上には備えがある。」

  と言い伝えられている。

   ※アドナイ・イルエ アドナイは「主」の意。

    主は見ておられ、全ての必要を備えてくださるの意。

 「聖書」ドン・ボスコ社 1978年

  アブラハムは、

  その場所を「※主がおはらからいになる」と名付けた。

  今でも※山で主はおはらからいになる」という諺があるが、

  このできごとに由来する。

   ※地名だから、テキストではヤヴェ・イレとある。

    ギリシャ語七十人訳による。
 
    ヘブライ語テキストが不定で「神の山で、その出現(?)」とある。

 「旧約聖書」1955年改訳 日本聖書教会

  それでアブラムはその所の名をアドナイ・エレと呼んだ。

  これにより、人々は今日もなお「主の山に備えあり」と言う。

  羽折、脚折(鶴ヶ島市)、膝折(朝霞市)

  「ヘブライ語聖書対訳シリーズ):創世記」ミルトヌ 1992年

   יהאה YHVH   יהרה YRAH 

         ה ' יהאה
                / השמ יהאה
     羽折    脚折、膝折

  -エルイ イナドア
  ( 見る   主は  )

     בהר   יהרה      יהאה
  ーエウェイ  イナドア ルハベ
  (見られる   主の  山で )

2014年5月13日火曜日

旧約聖書「創世記」第22章14①


 「古代史ブログ講座」開講にあたって
 Matのジオログ
 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 出典:歴史学講座『創世』:歴史研究家「小嶋 秋彦」

 課題:武蔵の坂戸・鶴ヶ島の秘密
    ―「浅羽」は旧約聖書人身御供祭事の「イサク」―

 旧約聖書「創世記」第22章14①

  「The BIBLE」 Amrican Bible Socity,New York 1970.1973

 So Abraham called the name of the place 

 The Lord will provide; as it is said to this day,

 "On the mount of the Lord it shall be provided" 

  Or see, Or he will be seen

  「Holy Bible」 Amrican Bible Socity,New York

  set forth in 1611 King James Version

  And Abraham called the name of that place Jehovah-jírěh:

  as it is said to this day.

  In the mount of the Lord it shall be seen.

  「The holy Bible」 King James Version 1611, American Bible society.

  And Abraham called the name of that place Jehovah-jiŕeh:

  as it is said to this day、

  In the mount of the Lord it shall be seen.

  「The New English Bible」 Oxford University Press, 

  Cambridge Unversity Press 1970

  Abraham named that place Jehovah-jireh; 

  and to this day the saying is:

  In the mountain of the Lord it was provided;

   That is the Lord will provide.

  「Holy Bible」 from the ancient eastern text,

  George M.Lamsa's Translations from the Aramaic of the Peshitta,

  Harper & Row, Publishers, San Francisco, 1817

  And Abraham called the name of the place Mariah-nekhzery, 

  that is, the Lord will provide, as it is said ti this day 

  on this mountain, The Lord shall provide.

  「The Holy Bible」 new revised standard version,

  Oxford Univesity Press 1989

  So Abraham called the place "The Lord will provide"

  as it is said to this day,

  "On the mount of the Lord it shall be provided"

   Or see;Heb traditionary transliterated Jehovah Jireh

   Or he will be seen


  「The New English Bible」 The Bible Society, 

  in association with Oxford Unversity Press,

  Cambridge University Press. 1961,1970

  Abraham named that place jehovah-jireh;

  and to this day the saying is:'In the it was provided.'

   that is the Lord will provide.

  「The New Oxford Annotated Bible with the Apocrypha」,

  revised standard version,

  New York Oxford University Press, 1977

  So abraham called the name of that place The Lord will provide;

  as it is said to this day,

   "On the mount of the Lord it shall be provided."

   Or see, Or he will be seen

2014年5月12日月曜日

武蔵国の地名と旧約聖書(11)


 「古代史ブログ講座」開講にあたって
 Matのジオログ
 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 出典:歴史学講座『創世』:歴史研究家「小嶋 秋彦」

 課題:武蔵国の地名と旧約聖書
    ―荒川・入間・幸手などの隠された真義―

 埼玉県・幕屋(9) 新座:和光市、狭山市、朝霞市-2

 入西荘[近世]「新編武蔵」にみえる荘名。入間郡のうち。
 
  中世末期から用いられたと思われる。

  属した村は堂山村のみ。現在の越生町の辺り。

 入西領[近世]「新編武蔵」にみえる領名。入間郡のうち。

  現在の坂戸市辺り。

 入西郡[中世]

  郡内を貫流する入間川を境として、

  西北の丘陵地帯を入西:にっさい郡、

  東南の平野部を入東郡と分称することもあった。

  入西郡の例としては、

  文安3年(1446年)3月9日の吾那憲光寄進状に

  「武蔵国」入西郡越生郷恒弘名之内田代村菊万在家」(最勝寺文書/武文)、

  延徳3年(1491年)4月8日の年紀がある

  諏訪神社の鰐口銘に「武州入西郡高坂郷」などとあるが(銘記集)、~。

 入曽村(狭山市):北入曽・南入曽

  [中世]戦国期みえる郷村名。入間郡のうち。

  天正14年(1586年)
 
  ※干支は巳とあるので天文14年(1545年)の誤りか

   正月3日の出陣衆覚に「武州入曽村拾弐衆」とあるのが初見。
  
   江戸期には南入曽村・北入曽村に分村。

 臑折村「新編武蔵」巻之百八十二高麗郡之七。

  臑折村は郡の東北入間郡の界にあり、加治領に属す。

  土人臑字或は脚と畫す。今臑の是なるに従ふ。

  小名 羽折、和田、大堀、中内手、熊野ヶ谷戸。

  白髭社 村の鎮守なり。例祭九月廿九日、―羽折〔此村今はなし〕

      ……七ヶ村の総鎮守なりしと云。

 森戸村「新編武蔵」小名 鍛冶屋、市場、宿かしら、本屋敷、二階、

            柳原、馬場原、田利、丸山、鶴明神社

 大在家村「新編武蔵」浅羽郷松山領に係わり

      小名 浅羽屋布:浅羽氏のものの住せし処なるべけれど、

              今は伝へず。鶴巻

 入間郷「和名類聚抄」麻羽、大家、郡家、高階、安刀、山田、廣瀬

    入間・属する所、入間川、奥富二村なり。

2014年5月10日土曜日

武蔵国の地名と旧約聖書(10)


 「古代史ブログ講座」開講にあたって
 Matのジオログ
 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 出典:歴史学講座『創世』:歴史研究家「小嶋 秋彦」

 課題:武蔵国の地名と旧約聖書
    ―荒川・入間・幸手などの隠された真義―

 埼玉県・幕屋(9) 新座:和光市、狭山市、朝霞市-1

 白子(和光市)地名の起りは

 天平宝字2年(758年)帰化の新羅僧らを

 武蔵国の閑地に移して新羅郡が置かれたが、この新羅が転訛し、

 中世の頃には白子と呼ばれるようになったという(地名辞書)。

 台地の周辺部から縄文期の土器・住宅跡や貝塚・弥生式土器・須恵器などが

 数多く出土しており、

 古代から人が住みついていた地であることが知られる(文化財を訪ねて)。

 [中世]白子郷 戦国期にみえる郷村名。新座郡のうち。

  「新編武蔵」には、応安元年(1365年)の文書に

  「白子郷」の名がみえるとあるが、この文書の所在・内容は不明。

  「梅花無尽蔵」の著者僧万里集九は、

  長享2年(1488年)太田道真の詩歌会に臨むため川越に向かう途中

  白子里に一泊したとあり、これが地名の初見。

 白子(飯能市)地名は白っぽい土地の意(日本の地名)。

  [中世]戦国期に見える郷村名。高麗郡のうち。

  初見は天文12年(1543年)7月1日

  滝山城(東京都八王子市)城主の大石定久が長念寺に寺領を寄進し、

  大石の後を継いだ北条氏照が永禄9年(1566年)正月13日に

  印判状をもって「白子之内」の長念寺領を

  定久の時の如く寺領を安堵している。

 新倉:にいくら(飯能市)

  地名は新座郡の中心をなした地域であることによるという。

  [中世]新倉 戦国期にみえる地名。

  新座郡のうち、「役帳」には、

  川村跡として「五十五貫文 同(江戸)新倉」~。

  [近世]新倉郡、「新編武蔵」にみえる郷名。新座郡のうち。

  中世末期頃から用いられたと思われる。

  属した村々は、

  岡・広沢原新田・根岸・台・上新倉・下新倉の6ヶ村。

  現在の朝霞市・和光市の辺り。

 広沢(和光市)[近代]昭和44年~現在の町名。
  
  はじめ大和町。昭和45年から和光市の現行地名。

  もとは大和町大字白子・下新倉・新倉の各一部。

 広沢郷[古代」平安期にみえる郷名。幡羅郡のうち。

  「和名類聚抄」幡羅郡8郷の一つ。

  現在の妻沼町一帯に比定する説(地名辞書)と

  熊谷市一帯とする説(旧県史)がある。

 広沢荘[近世]「新編武蔵」にみえる荘名。新座郡のうち。

  中世末期頃から用いられたと思われる。

  現在の新座市・朝霞市・和光市辺り。

2014年5月8日木曜日

武蔵国の地名と旧約聖書(9)


 「古代史ブログ講座」開講にあたって
 Matのジオログ
 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 出典:歴史学講座『創世』:歴史研究家「小嶋 秋彦」

 課題:武蔵国の地名と旧約聖書
    ―荒川・入間・幸手などの隠された真義―

 埼玉県・幕屋(8) 新座:飯能・日高・入間、

          三芳町・富士見町・所沢市

 三芳:みよし(三芳町)柳瀬川上流左岸に位置する。

  地名の由来は中世から「三芳野の里」による。

 三芳野郷[近世]「新編武蔵」にみえる郷名。

  入間郡・高麗郡のうち。

  中世末期から用いられたと思われる。

 三芳野神社(川越市)川越市郭町に鎮座。

  祭神:素盞鳴尊・稲田媛命、配祀:菅原道真・誉田別尊

  創立は大同2年()と伝えられる。
  
  ~この三芳野という社名は

  「伊勢物語」に出てくる「入間郡三芳野の里」という

  地名が川越の旧地名なので、つけられたといわれる。

  河越=三芳:(Heb.),גלִַד,MTsVH,gliad 

 竹間沢:ちくまざわ(三芳町)

  地名の由来は、

  地内の中央に竹林があり、清水が湧いて流れがあったことによると伝える。

  地内には鎌倉期の板碑片が数枚あり、鎌倉街道と呼ぶ古道が通っていた。

  地内からは縄文・弥生・古墳期にかけての集落跡が2ヶ所発掘された。

 北長井(三芳町)北永井とも書いた。

  [近世]江戸期~明治22年の村名。入間郡河越領のうち。

  古くは仙波荘三芳野郷に属したという。

  寛文9年(1669年)の検地帳に「河越領長井村」とあり、

  延宝3年(1675年)の検地帳には「武州河越領北永井村」とみえ、

  この間に永(長)井村が南北に分村したと思われる。

 藤久保(三芳町)
 
  地名の由来は、東方の窪地に大きな藤ノ木があったことによると伝える。

  地内には縄文期から平安期にかけての集落跡が多数発見されている。

  [近世]藤久保村 江戸期~明治22年の村名。

  入間郡河越領のうち。
  
  古くは武蔵野郷仙波荘に属したという。

  正保年間(1644~1648年)から元禄年間(1688~1704年)の立村という。

 上富(三芳町) 

  江戸中期に入会地を開発し、上富、中富、下富と名づけ、

  三富:さんとみ神田と称した。

  中富・下富は現在、所沢市に属す。

  地名の「富」は「論語」からとったという。

 富士見(富士見市)地名の由来は西方に富士山を望むことにより。

  [近代]昭和31~39年の入間郡の自治体名。

  水谷(北足立郡)・鶴瀬・南畑の3カ村が合併して成立。(富士見村) 

 針ヶ谷(富士見市)

  新河岸(しんがし)川右岸の沖積地とそれに続く台地上に位置する。

  台地面からは土器・石器など考古史料が多数出土し、

  縄文前期から古墳期にかけての集落跡である北通遺跡・南通遺跡がある。

  [近世]江戸期~明治22年の村名、入間郡河越領のうち。

  古くは三芳野郷仙波荘に属したという。

  もとは新座郡館村のうち柳瀬川の北方の地が分村して成立。

  川越藩領、幕末には上野前橋藩領。


 関沢:せきざわ

  [近代]昭和48年~現在の町名(富士市)。もとは鶴間:つるまの一部。

 水子:みずこ(富士市)台地上には縄文期はじめ多くの原始・古代住居跡があり、

  特に字寺前の縄文前期の遺跡・水子貝塚は有名で、国史跡。

  [中世]室町期から見える地名。

  延文6年(1361年)の成立という市場之祭文の応永22年(1415年)7月20日の

  追記に「武州入間郡水子郷」とみえるのが初見。

 鶴瀬村(富士市)明治22年~昭和31年の入間郡自治体名。鶴ヶ瀬とも称した。

  鶴間・勝瀬の2ヶ村が合併して成立。

 鶴間(富士見市)鶴間とも書く。

  [中世]戦国期にみえる地名。入東郡のうち(入間郡の東部)。

  「役帳」には小机衆上田左辺の所領とし

  「百七十貫文 入東 鶴間 乙卯検地」とある。

 羽沢(富士見市)

  [近代]昭和48年~現在の富士見市の町名。もと大字鶴間の一部。

 館(富士見市)館之郷[近世]「新編武蔵」にみえる郷名。

  新座郡のうち。中世末期頃から用いられたと思われる。

  属した村は県下では館村のみ。

 館村[近世]江戸期~明治7年 神社は氷川神社と旧中野村の鎮守。

  (現)大明神社ほか4社

 立野牧[古代]古代の牧名。

  武蔵五牧の一つ。左馬寮に属したが、後刺旨牧となる。

  「政事要略」巻23・年中行事8月下の頃に

  天暦7年(953年)8月25日には

  「武蔵刺旨牧并立野御馬事」として、貢馬の数が「立野廿」と定められている。