2014年5月8日木曜日
武蔵国の地名と旧約聖書(9)
「古代史ブログ講座」開講にあたって
Matのジオログ
『My ブログ』
《考古学&古代史の諸問題》
《参考:年表・資料》
出典:歴史学講座『創世』:歴史研究家「小嶋 秋彦」
課題:武蔵国の地名と旧約聖書
―荒川・入間・幸手などの隠された真義―
埼玉県・幕屋(8) 新座:飯能・日高・入間、
三芳町・富士見町・所沢市
三芳:みよし(三芳町)柳瀬川上流左岸に位置する。
地名の由来は中世から「三芳野の里」による。
三芳野郷[近世]「新編武蔵」にみえる郷名。
入間郡・高麗郡のうち。
中世末期から用いられたと思われる。
三芳野神社(川越市)川越市郭町に鎮座。
祭神:素盞鳴尊・稲田媛命、配祀:菅原道真・誉田別尊
創立は大同2年()と伝えられる。
~この三芳野という社名は
「伊勢物語」に出てくる「入間郡三芳野の里」という
地名が川越の旧地名なので、つけられたといわれる。
河越=三芳:(Heb.),גלִַד,MTsVH,gliad
竹間沢:ちくまざわ(三芳町)
地名の由来は、
地内の中央に竹林があり、清水が湧いて流れがあったことによると伝える。
地内には鎌倉期の板碑片が数枚あり、鎌倉街道と呼ぶ古道が通っていた。
地内からは縄文・弥生・古墳期にかけての集落跡が2ヶ所発掘された。
北長井(三芳町)北永井とも書いた。
[近世]江戸期~明治22年の村名。入間郡河越領のうち。
古くは仙波荘三芳野郷に属したという。
寛文9年(1669年)の検地帳に「河越領長井村」とあり、
延宝3年(1675年)の検地帳には「武州河越領北永井村」とみえ、
この間に永(長)井村が南北に分村したと思われる。
藤久保(三芳町)
地名の由来は、東方の窪地に大きな藤ノ木があったことによると伝える。
地内には縄文期から平安期にかけての集落跡が多数発見されている。
[近世]藤久保村 江戸期~明治22年の村名。
入間郡河越領のうち。
古くは武蔵野郷仙波荘に属したという。
正保年間(1644~1648年)から元禄年間(1688~1704年)の立村という。
上富(三芳町)
江戸中期に入会地を開発し、上富、中富、下富と名づけ、
三富:さんとみ神田と称した。
中富・下富は現在、所沢市に属す。
地名の「富」は「論語」からとったという。
富士見(富士見市)地名の由来は西方に富士山を望むことにより。
[近代]昭和31~39年の入間郡の自治体名。
水谷(北足立郡)・鶴瀬・南畑の3カ村が合併して成立。(富士見村)
針ヶ谷(富士見市)
新河岸(しんがし)川右岸の沖積地とそれに続く台地上に位置する。
台地面からは土器・石器など考古史料が多数出土し、
縄文前期から古墳期にかけての集落跡である北通遺跡・南通遺跡がある。
[近世]江戸期~明治22年の村名、入間郡河越領のうち。
古くは三芳野郷仙波荘に属したという。
もとは新座郡館村のうち柳瀬川の北方の地が分村して成立。
川越藩領、幕末には上野前橋藩領。
関沢:せきざわ
[近代]昭和48年~現在の町名(富士市)。もとは鶴間:つるまの一部。
水子:みずこ(富士市)台地上には縄文期はじめ多くの原始・古代住居跡があり、
特に字寺前の縄文前期の遺跡・水子貝塚は有名で、国史跡。
[中世]室町期から見える地名。
延文6年(1361年)の成立という市場之祭文の応永22年(1415年)7月20日の
追記に「武州入間郡水子郷」とみえるのが初見。
鶴瀬村(富士市)明治22年~昭和31年の入間郡自治体名。鶴ヶ瀬とも称した。
鶴間・勝瀬の2ヶ村が合併して成立。
鶴間(富士見市)鶴間とも書く。
[中世]戦国期にみえる地名。入東郡のうち(入間郡の東部)。
「役帳」には小机衆上田左辺の所領とし
「百七十貫文 入東 鶴間 乙卯検地」とある。
羽沢(富士見市)
[近代]昭和48年~現在の富士見市の町名。もと大字鶴間の一部。
館(富士見市)館之郷[近世]「新編武蔵」にみえる郷名。
新座郡のうち。中世末期頃から用いられたと思われる。
属した村は県下では館村のみ。
館村[近世]江戸期~明治7年 神社は氷川神社と旧中野村の鎮守。
(現)大明神社ほか4社
立野牧[古代]古代の牧名。
武蔵五牧の一つ。左馬寮に属したが、後刺旨牧となる。
「政事要略」巻23・年中行事8月下の頃に
天暦7年(953年)8月25日には
「武蔵刺旨牧并立野御馬事」として、貢馬の数が「立野廿」と定められている。
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