2014年4月26日土曜日

武蔵国の地名と旧約聖書(8)


 「古代史ブログ講座」開講にあたって
 Matのジオログ
 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 出典:歴史学講座『創世』:歴史研究家「小嶋 秋彦」

 課題:武蔵国の地名と旧約聖書
    ―荒川・入間・幸手などの隠された真義―

 埼玉県・幕屋(7) 新座:飯能・日高・入間

 野々宮(日高市)地名は当地の鎮守の野々宮神社による。

  当社は天文16年(1547年)11月18日付けの

  「六所宮祭事ニ付参集覚」を所蔵する。

  野々宮村[近世]江戸期~明治22年の村名。

  野々宮神社 楡木(にれき)・猿田・新堀・栗坪など各村の鎮守。

 猿田:えんだ(日高市)「さるた」ともいう。

  [近世]猿田村 江戸期~明治22年の村名。

 楡木:にれぎ(日高市)「にれのき」(役帳・田圃簿)。

  「ねれぎ」(新編武蔵)ともいう。

  地名の由来は「新編武蔵」に

  「村内に旧家と称する農民四五軒あり。

  それが家にある楡木はその類他になきものして


  村名もこれにより起りしと」とある。

  [中世]にれの木、戦国期にみえる地名。

 名栗郷:なぐりごう

  [中世]鎌倉期からみえる郷名。那栗郡とも書く。秩父郡のうち。

  地名の由来は「新編武蔵」で栗の名産地だったことにするが、

  一説にはナグリの「クリ」には石ころ・岩、ひいてはガケの意味があり、

  名栗川沿岸のガケが注目されてその名を得たとする説もある

  (松尾俊郎:日本の地名)。ただ「ナ」をどう解するか。

  山城の殖栗のナグリ神社は双栗神社と書くのが注目される。

  また「ナグリ」とは入り込んだ谷間の意だという(地名誌・地名語源辞典)。

  初見は元享4年(1324年)10月日の

  秩父神社(現秩父市)造営料木注文に~。

 武蔵国(旧国名)律令体制によって設置された国。

  <角川日本地名大辞典「埼玉県」>

  「ムサシ」の語源は

  大化(元年645年)前代の「无邪志」(ムザシ、古事記、国造本紀)に

  由来するといわれ、「和名類聚抄」では「牟佐之」(ムサシ)と注し、

  ザがサに変じている。

  国名の由来は、

  ①漢字に基づくもの、②発音に基づくもの、③語意にに基づくもの

  の3説がある。

  ①は「武蔵」という漢字から説くもので、

   この文字は和銅6年(713年)の詔に依って付けられたものであるから

   根拠に乏しい。~

  ②は武蔵・相模はともに「牟佐」の国で、

   相模は「牟佐上」のムを略したもの、

   武蔵は「牟佐下」のモを略したものとする。

   「牟佐」の意義不明(古事記伝)。

   「御坂上」が相模、「御坂下」を武蔵とする(内山真竜:国名考)。

   駿河・相模・武蔵の地を弟橘比売命の歌から「佐斯」を総称するとし、

   それが2つに分かれ「佐斯上」のシを省き相模。

   武蔵は「身佐斯」で、

   身は中に主のある処、佐斯国の真原を指す意(古事記伝)。

   「むさし」は、むねさし(胸刺)の転じたもの(倭訓栞)、

   武蔵野に茅、茨多く行人の身を刺すので「身刺」という(郡名同唱考)。

   武蔵野の「ムサクロシ」という土俗語より出るという(田中頼庸)。

   「ムサ」は俘囚を呼ぶ古語で、俘囚を置いたところから

   その国を上・下に分け「ムサ下」から出る意(類聚名物考)。

  ③は城の古訓「佐之」より古来馬を出していた武蔵から

   「馬城」の義とする(栗田寛)。

   「牟佐志美」の略で

   「牟佐」は草、「志美」は繁で、草木繁り禽獣の住む所の意(武蔵志料)。

   武蔵は隣国6国境を差し合っているので「六差」とする(武蔵志料)。

   「さし」は道路で、

   この国は諸州の人の街道であるから「六さし」とする(温故随筆)。

   上総・下総・安房など武蔵・相模も古くは「総」の国と呼び、

   「ふさしも」から転じたとする(陸略記)等。

   国名の初見は神功皇后紀47年7月条、
  
   正しくは天武13年5月甲子条である。

 ※「武蔵」"ムソウ",מָסהָָֻה,MVshVH,moshouoh "ムソウ木" 植民地、村

  ◎つまり「无邪志」は「武蔵」と改称し、

   高麗(呉)人[イスラエル人]の植民地[居留地]となったのである。

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