2014年4月24日木曜日
武蔵国の地名と旧約聖書(7)
「古代史ブログ講座」開講にあたって
Matのジオログ
『My ブログ』
《考古学&古代史の諸問題》
《参考:年表・資料》
出典:歴史学講座『創世』:歴史研究家「小嶋 秋彦」
課題:武蔵国の地名と旧約聖書
―荒川・入間・幸手などの隠された真義―
埼玉県・幕屋(6) 新座:飯能・日高・入間
飯能(飯能市)入間川沿いに位置する。
地名の由来は武蔵七党丹党「判乃氏」が居住したことによるという。
[近世]飯能村。江戸期~明治15年の村名。高麗郡のうち。
古くは加治郡加治荘加治領に属したという。
芦刈場(飯能市)芦苅庭・芦苅場とも書く。芦苅場村は戦国期にみえる郷村名。
阿須(飯能市)安須とも書く(田園簿)。
地名の「アズ」は「油」で、崖のくずれたところを意味し、
「新編武蔵」に
「村の東、仏子村境にあり、古は阿須山とて連綿せしむ山なりしが、
入間川洪水の時、山崩れしよりかく数十丈の崖となりし云」とあるから、
この崩崖に地名は由来するという(地名誌)。
落合(飯能市)地名の由来は川の合流点をあらわす。
上赤工(かみあかたくみ)(飯能市)
もとは赤内匠村であったが、元禄年間頃、上赤工・下赤工の2ヶ村に分村。
加治郷(飯能市)
[中世]鎌倉期にみえる郷名。高麗郡のうち。
[近世]「新編武蔵」にみえる郷名。
永田(ながた)(飯能市)長田とも書く。
当地には平安期から武蔵七党丹党「長田氏」が居住していたと伝える(旧県史)。
[中世]戦国期にみえる郷村名(長田村)。
川寺(飯能市)
村名の「かわでら」は「川平」で
入間川に臨む平垣地区に由来するという(地名誌)。
苅生:かろう(飯能市)「かりう」ともいう。
地名は焼畑一切替畑の意である。(民族辞典)といい。
因幡で野山の開墾地を「かりょうばた」ともいい。
苅生の文字を当てており、
苅生は鎌の作業を主として呼ぶらしい
(開拓と地名)ともいわれている(地名誌)。
[近世]苅生村 江戸期~明治22年の村名。
日高:ひだか市(町)昭和30年
日高町、高麗川村・高麗村の2ヶ村が合併して成立。
鹿山:かやま(日高市)賀山とも書く(役帳)。
地名の由来は明らかでないが「かのやま」の転と思われ、
「かの」とは焼畑・切替畑の意である(地名誌)。
[中世]賀山村 戦国期にみえる郷村名。高麗郡のうち。
田木:たぎ(日高町)
地名は方言「たき」から起ったとみられ、
山、山腹の急傾斜地、崖の意である(地名誌)。
[近世]田木村、江戸期~明治22年の村名。
台(日高町)地名は台地上に位置することによる(新編武蔵)。
[近世]台村、江戸期~明治22年の村名。古くは高麗郡に属したという。
高麗郡 武蔵国の郡名。
初見は「続日本紀」。
武蔵国のほぼ中央に位置し、~。
郡名の由来は、高麗人を移して新たに郡を設置したことによる。
[古代]武蔵国分寺献進瓦に「高」の字がみえるが、
文献上の初見は「続日本紀」霊亀2年(716年)5月条に
「以駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、
下野七国高麗人千七百九十九人、遷于武蔵国、始置高麗郡焉」とある記事。
※高麗=呉=イスラエル人 相模(高座) 上総(坂戸)
また同書延暦8年(789年)10月条に
「散位従三位高倉朝臣福信薨、福信武蔵国高麗人也。
本姓背奈、其祖福徳属唐将李勩抜平壌城、来帰国家居武蔵焉。
福信即福徳の孫也」とある。
「延喜式」神名帳には郡内の神社の記載はない。
「和名類聚抄」では「古末」と訓じ、高麗・上総の2郷が挙げられ、小郡。
郡衙の所在地は高麗郷(現在の入間郡日高町高麗本郷)で、
高麗王若光の子孫が郡司であったと考えられる。
[中世]高麗王若光の子孫は高麗氏と名乗り、
若光を祀る高麗神社の宮司を代々継承するとともに、
この地方の武士として勢力を持っていた。<高麗氏>
高麗神社:入間郡日高町(現市)に鎮座。
祭神、高麗王若光・猿田彦・武内宿禰。
天武天皇(672~678)の時、
朝鮮半島の戦乱を避けて一族とともに日本に渡来した高麗王若光は
文武天皇の時従五位下に叙せられ、次いで大宝3年(718年)に王姓を賜った。
霊亀2年
駿河、甲斐、相模(高座)、上総(坂戸)、下総、常陸、下野の7ヵ国に
居住していた高麗人(イスラエル人)1799人を武蔵国に移して高麗郡を置いたが、
それを統一したのがこの高麗王若光であったと伝える。
若光は郡中の繁栄を祈るため日頃崇敬していた
猿田彦命を祭祀して1社を創立し、武内宿禰を配社として
白鬚明神として崇敬した。
天平2年(729年)若光が亡くなった時、家臣は霊廟を建て、
高麗明神として崇め、やがて白鬚明神の合祀して高麗大明神と改称し、
高麗郡の総鎮守となった。
古くから出世開運の神として参詣者が多い。
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