2014年4月15日火曜日

武蔵国の地名と旧約聖書(4)


 「古代史ブログ講座」開講にあたって
 Matのジオログ
 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 出典:歴史学講座『創世』:歴史研究家「小嶋 秋彦」

 課題:武蔵国の地名と旧約聖書
    ―荒川・入間・幸手などの隠された真義―

 埼玉県・幕屋(3) 新座:飯能・日高・入間

 新座(にいざ)郡 武蔵国の郡名。

  新羅郡が転化して新座郡になったとされる。

  新羅郡の初見は「続日本紀」、

  また新座郡の初見は「延喜式」。

  武蔵国の中央部ややひ東寄りの荒川(旧入間川)右岸に位置する。

 「古代」

  新羅郡の初見は「続日本紀」天平宝字2年(758年)8月条に

  「帰化 新羅僧卅二人。尼二人。男十九人。女廿一人。

   移武蔵国閑地。於是。始置新羅郡焉。」とある記事で、

  新羅人を武蔵国に移動されたのである。

  また同書宝亀11年(780年)5月条には、

  「武蔵国新羅郡人沙良、真熊等二人賜姓広岡造」

  という記事もある。

  しかし「延喜式」では新座と書かれており、

  その頃までにはすでに新羅郡から新座郡への名称の転化が

  行われていたものと思われる。

  「和名類聚抄」では新座は「爾比久良(にひくら)」と訓じられており、

  志木・余戸の二郷が挙げられ、

  小郡の郡衙の所在地は(現在の志木市志木付近)と推定される。

 〔中世〕

  ~宝徳3年(1451年)9月24日の年紀がある

  氷川神社(浦和市本太)の神輿の屋根裏に書かれた墨書銘に

  「にいくら大工二郎三郎かねみつ殿」とあり、

  新座(新坐)が「にいくら」と訓まれていたことが知られる。

  「にいくら」の訓みから新倉と書かれることもあり~、

  「にいくら」の訓みを「にいざ」に改めるのは、

  近世に至って享保2年(1802年)に

  郡名の唱を定めてからといわれている(新編武蔵)。

 志木郡(和光市)

 〔古代〕

  平安期からみえる郷名。新座郡のうち。

  「和名類聚抄」新座郡二郷の一つ。

  郷名の由来は、新座郡の中心であったことによる。

  本来は志楽(しらぎ)郡であったという。

  新座郡の古称である

  新羅(しらぎ)郡の「新羅」が「志楽」と転じて郷名となり、

  さらにその「楽」を草体に書いたため

  「木」に近似して誤りを招いたとする。

  高山寺本「和名類聚抄」の志未(シマ)(=敷島)郷も同様(地名辞書)。

  また志羅木あるいは志楽木を中略して志木になったともいう(新編武蔵)。

 宗岡(志木市)棟岡とも書く(役帳)。

  棟岡[中世]戦国期に見える地名。

  入東郡のうち。[近世]宗岡村、江戸期への明治22年の村名。

  入間郡 河越領のうち、古くは三芳野里仙波荘に属したという。

 川越(川越市)河越・河肥とも書く。

  地名の由来は入間川、荒川を越えることによるという説

  (甲子夜話、三芳野名勝図会/埼玉叢書1)、

  越は渡しの意で入間川の渡しがあったことによるという説(地名誌)、

  入間川の氾濫によって土地が肥えたことによる説

  (八代国治説)などの諸説がある。

  [中世]河越荘 鎌倉期からみえる荘園の名。

  河越:南北朝期からみえる地名。

  [近世]川越町江戸期~明治22年

  〇国分寺建立 741年(聖武天皇)

 入間郡 武蔵国の郡名。初見は「続日本紀」。

  [古代]武蔵国分寺献進瓦に「入」「入麻」などの字がみえるが、

  文献上の初見は「続日本紀」神護景雲2年(705年)7月条に

  「武蔵国入間郡正大位上勲五等物部直広成等六人、賜姓入間宿禰」

  とある記事。

  宝亀2年(771年)に入間郡の正倉4宇が焼け(天理図書館所蔵文書)、

  そのため同4年に入間郡司らが解任されている(寧遺上)。

 入間川(狭山市)鎌倉期からみえる地名。入間郡のうち。

  「吾妻鏡」元暦元年(1184年)4月26日によると

  「堀藤次親家郎従藤内光澄皈参。於入間河原誅志水冠者之由之云々」

  とあり、~。

 入間郷[近世]「新編武蔵」にみえる郷名。入間郡のうち。

  中世末期頃から用いられたと思われる。
  
  属した村々は、入間川・下奥富の2ヶ村。現在の狭山市辺り。

 新久(あらく)(入間市)

  地名の新久は新開墾地の意味であり(埼玉の地名)。   

  当地名も新田開発に因むものと思われる。

  地内には縄文中期の新久遺跡、縄文中期・古墳後期の大久保北遺跡、

  奈良期の八瀬窯跡・八坂前窯跡・東金子窯跡郡などがあり、

  数十ヶ所の窯跡とともに、布目瓦・須恵器などが多数発掘されている。

  瓦には父、玉、埼、豊などの郡名を示したものがあり、

  国分寺建立および改修のために焼成されたものという。

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