2014年5月28日水曜日

モリアの丘 HR-Mō-riah:坂戸市・毛呂山町(2)

 「古代史ブログ講座」開講にあたって
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 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 出典:歴史学講座『創世』:歴史研究家「小嶋 秋彦」

 課題:武蔵の坂戸・鶴ヶ島の秘密
    ―「浅羽」は旧約聖書人身御供祭事の「イサク」―

 モリアの丘 HR-Mō-riah:坂戸市・毛呂山町(2)

 麻羽郷:あさば[古代]平安期にみえる郷名。入間郡8郷の一つ。

  「阿路波」(高山寺本)とも「安佐波」(刊本)とも訓む。

  現在の坂戸市大字浅羽を中心とする一帯に比定する説(新編武蔵・地名辞書)。

 浅羽郷[中世]南北朝期からみえる郷名。入西(にっさい)郡のうち。

  人名・武士団名としては

  「吾妻鏡」「七党系図」などにすでに散見される武蔵七党児玉党の一氏族。

  徳治2年(1307年)在名の万福寺板碑には浅羽行政の名がみえ.~。

 浅羽郷・浅羽荘[近世]「新編武蔵」にみえる郷・荘名

 浅羽(坂戸市)高麗川右岸の台地・低地に位置する。

  「和名類聚抄」麻羽郷の遺称地に比定され、

  当地内には県文化財の万葉遺跡浅羽野、

  弥生後期の散布地上浅羽遺跡、

  古墳後期の浅羽古墳群、時期不明の萱方城跡がある。

 大家(おおやけ)郷 「和名類聚抄」所載の郷。

  同書高山寺本に「於保夜計」、

  東急本・元和古活字本に「於保也介」、

  各博本に「ヲホヤケ」の訓がある。

  「万葉集」巻一に

  「入間道(いりまぢ)の大家が原のいはゐ蔓(づる)引かばぬるぬる吾にな絶えそね」

  とみえる。

  「大日本史」国郡志、「日本地理志料」「大日本地名辞書」 は

  現大井町から富士見市にわたる一帯とし、

  「風土記稿」「埼玉県史」は現坂戸市の森戸を中心とする一帯とする。

 大谷郡[近世]「新編武蔵」にみえる郷名。

  足立郡のうち中世末期から用いられたとみられる。

  属した村は大谷本郷村のみ。現在の上尾市辺り。

 安刀郡[古代]平安期にみえる郷名。入間郡のうち。

  「和名類聚抄」入間郡」8郡の一つ。

  現在の川越市大字上戸、的場中心とした一帯に比定する説(地名辞書)と

  所沢市一帯とする説(旧県史)がある。

  「和名類聚抄」所載の郷。諸本とも訓を欠く」がアトであろう。

 山田郷「和名類聚抄」所載の郷。同書高山寺本に「夜末太」、

  東急本・元和古活字本に「世万多」の訓がある。
 
  「大日本地名辞書」「埼玉県史」は現川越市の仙波・山田一帯とし、

  特に異説はない。

 山田郷「近世」「新編武蔵」にみえる郷名。入間郡のうち。

  属した村々は県下では北秋津、上新井、南入曽の3ヶ村。

  現在の所沢市、狭山市の辺り。

 広瀬郷「和名類聚抄」所載の郷。

  同書高山寺本・東急本・元和古活字本に「比呂世」、

  各博本に「ヒロセ」の訓がある。

  嘉祥3年(850年)6月3日

  広瀬神が官に列せられ(文徳実録)、式内社に「広瀬神社」がある。
 
  現狭山市北部・西部から飯能市にかかる地域に比定される。

 広瀬郷<狭山市、飯能市>[古代]平安期にみえる郷名。入間郡のうち。

  「和名類聚抄」入間郡8郷の一つ。訓みは比呂世。

  郷内には式内社と伝える広瀬神社があり、

  社伝によると日本武尊が東征の途中、この地に立ち寄り、

  当地が大和国広瀬郡川合の広瀬神社の地形によく似ていることに気づき、

  ここに祀ったと伝えられているが、

  広瀬郷は

  現在の狭山市北部及び西部から飯能市に及ぶ一帯の地域に比定される。

 坂戸:高麗川・越辺(おっべ)川右岸の低地・台地に位置する。

  地名は平安期の康平年間(1058~1065年)に当地に位した

  坂戸判官教明に由来するというが、不詳(新編武蔵)。

  当地内には縄文・古墳・奈良・平安期の集落跡の芦山遺跡がある。

 森戸:もりど(坂戸市)当地内には室町期の大家城跡がある。

  [中世]戦国期にみえる地名。入西(にっさい)郡のうち。

 北大塚(坂戸市)

  当地内には南北朝以降のものと推定される大塚屋敷(大塚館跡)がある。

 小山(坂戸市)当地内には縄文中期の集落跡、中小遺跡、古墳後期の東山古墳群、

  坂戸市102~104号古墳、平安期のものと推定される三福寺館跡があり~。

 入西荘(坂戸市)「新編武蔵」にみえる荘名。入間郡の内。

  中世末期頃から用いられたと思われる。

  属した村は堂山村のみ。

  現在の越生町の辺り。

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