2014年6月2日月曜日

サカト/イサクの燔祭〔千葉県〕

 「古代史ブログ講座」開講にあたって
 Matのジオログ
 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 出典:歴史学講座『創世』:歴史研究家「小嶋 秋彦」

 課題:千葉と上総の坂戸神社
    ―人身御供神事の真実と蘇我・大宮―

 『サカト/イサクの燔祭〔千葉県〕』

 坂戸神社〔千葉県袖ヶ浦市坂戸市場〕

  「袖ヶ浦町史」"坂戸神社と天の岩戸"(記載「西かずさ昔むかし」)

  ○坂戸神社 

   祭神 天手力男命

   元は逆手神社といい、人身御供の言い伝えがあり、

   古くはお祭の日には村人が集まって、くじ引きで、

   神さまの「いけにえ」になる人を決めたという。

   くじに当たった人は神前に用意された俎板の上に乗せられ、

   神主さんが刀を抜いて「いけにえ」になった人を

   魚を料理するような手つきで切る真似をし、人身御供に

   したということだが、切る真似で、

   からだには全然さわらないのだが、このくじに当たって
 
   人身御供になった人は、三年のうちに必ず死んだという。

   お祭だから仕方がないとはいえ、

   誰もこのくじ引きは止めたいと思っていたが、さいわい、

   里見義堯が治めるようになってから止めることにし、

   代りにお祭りが始める前に、竹で作った八角形の一つ目の

   お面を被った人が馬に乗って、神輿の通る村々の道を走り、

   終わりにお面を捨てて、

   同じ道は通らずに帰って来るようにしたという。

  ○例祭 陰暦6月27日(今は7月29日)「人身御供」の奇習。

   あらかじめ「くじ」で決められた氏子の一人を大きな板の上に

   載せて神前に供え、神官が断ち切る真似をするのであるが、

   その人は3年以内に必ず死ぬといわれた。

   安房を統治して上総地方に進出した里見義堯は
 
   この風習を禁止し、

   代りに青緍(あおざし)10貫文を寄進したという。

 坂戸・逆手「サカト」

  ,סהכהִיתֶַ,shkhYTH,shkhiytae (ユダヤ教の掟に従った)屠殺<法>

  ,סהַכהַת,shkhT,shakhat (ユダヤ教の掟に従って)屠殺する、殺す

 市場(いちば)「シバ」

  ,זֶוַכה,ZVkh,zevakh 燔祭に奉げる動物、いけにえ

  ,זַוַכה,ZVkh,zavakh (犠牲のために動物を)殺す

 <出エジプト記第22章18>

 ※明らかに「いけにえ」とされたイサクを主人公とした

  "イサクの燔祭"神事である。

  不幸にも、神官はいけにえを切る仕草をしてしまった。

  刀を振り上げたところで、

  その仕草を止めなければならなかったのは明らかである。

  この神事を始めた頃はそのようであったと推測されるが、

  時が経つに従い、その意義が忘失され、

  いけにえを切る(殺す)仕草となってしまったのであろう。

 ※当地の神事は埼玉県坂戸市へ伝承された。

 〔埼玉県〕

  坂戸市、鶴ヶ島市、入間郡毛呂山町、日高市

 ※「気が狂って」死ぬ

  「ソガ」,סהִגִַֻ,shGI,shiguai 気を狂わせる、気違いにする

     ,סהֻגִַֻ,shGI,shuguai 発狂[錯乱]する 

 ※蘇我「ソガ」,סהֶגֶֻ,shGV,shegeu 巨大、偉大、高貴

       ,סהַגַֻיַ,shGYA,shaguaya 大いなる、偉大な、高尚な

       〔ガド族のうちの族類〕

 《参考》

 出典:「日本の神々」白水社"関東"
    251~252頁

 坂戸神社:千葉県袖ヶ浦市坂戸市場・(鈴木仲秋)

  坂戸山という南に延びる舌状台地の中ほどに鎮座し。、

 境内地の老松巨樹は東京湾を航行する船にとって

 アテの一つとしてよく知られていた。旧郷社。

  祭神は

 手力雄(たぢからお)命・天児屋根(あめのこやね)命・

 天太玉(あめのふとだま)命であるというが、

 創建については詳らかでない。

 伝承では天富命が阿波の斎部を率いて房総に至り、

 麻穀を播殖し、人々に業を教えたので、

 人々はここに斎部氏の祖神を祀ったものという。

 また一説には、景行天皇40年に

 日本武尊が戦勝を祈願して奉幣したとも、

 白鳳2年(662年)に十一面観音菩薩を本地仏とし、

 養老2年(718年)に信濃の戸隠神社に倣って
 
 天児屋根命と天太玉命を合祀したともいわれている。

 古くは磐戸神社と呼ばれていたが、

 養老2年に坂戸神社に改称したという。

 江戸時代には一般に坂戸明神といわれていたようで、

 『房総志料』には「坂戸明神の森あり、或は逆手に作る」とあり、

 坂戸は「逆手(さかて)」ともいわれたことがうかがえる。

  祭礼は陰暦五月二十七日であったが、

 現在七月二十九日に変っている。

 かってこの祭りには人身御供の風習があったと伝えられる。

 村人が相集まって人贄(ひとにえ)となる者を籤で決め、

 祭りの当日、神官はその者を俎上にのせ、

 刀を揮って切り裂く真似をして神前に供える。

 この役を務めた者は三年のうちに必ず死ぬといわれ、

 この地を治めた里美義堯はこれを厳禁したという。

  またこの人質の遺風かどうか定かではないが、

 一目御供(ひとめごくう)という行事がかって行われていた。

 祭礼の日の午前十時前に神官があらかじめ選ばれた者に、

 竹筒の先端に幣帛をさし、その末を八つに割って紙を張り、

 一つの穴をあけた笠を授ける。

 これを被ると、顔は全く隠れ、目だけ見える。
 
 この者は笠をもらうと直ちに馬に乗って神前に向う。

 一目御供というのは、笠にあけられた目の穴が一つであることも
 
 関連した名称と考えられるが、

 もともとは人身御供の意味であったといわれる。

 神官の祈祷が終わると、一目御供は馬に乗ったまま

 神輿の渡御する道を走って旅所に到着し、

 ここで笠を脱ぎ捨てて神社に帰着する。

 帰路は必ず迂回して、往路とは別の道をとったという。

  また当社には、かって祭礼に使用したと考えられる
 
 銅製の孔雀の飾りがあり、

 銘には応永20年(1413年)と記されていたが、

 現在は行方不明になっている。

 町指定文化財「古式祭礼図巻」は

 明治に入ってからの作品であるが、

 江戸時代の坂戸神社の祭礼がよく描かれており、

 現在に比べて遥かに華やかなものだったことがうかがえる。

  境内地は県指定天然記念物「坂戸神社の森」として知られ、

 スダジイ林を主体とした北斜面の下部にタブ林がり、

 一部にマテバシイが混じる常緑広葉樹林である。

 また指定地内の参道左側に

 長軸約40メートルほどの前方後円墳が一基あり、

 後円部の一部に撹乱があるものの、

 よくその形態をとどめている。
 
 いわゆる柄鏡形を呈し、おそらく袖ヶ浦市内で

 最も古い古墳の一つと考えてよいであろう。

 この前方後円墳について多少大胆に推測すれば、

 当社の本来の祭神はここに埋葬された

 望陀(もうだ)国造一族の首長であり、

 当社は古墳祭祀が神社祭祀のもととなった

 一例といえるのではなかろうか。

  社殿の前にはもと古鏡があって、銘尾に

 「弘長3年(1263年)癸亥武州河崎荘内勝福寺」と記されていたという。

 『房総史料』には

 「弘長は亀山帝の年号なり、

 戦国の比彼土よりうばひ来れるにて有べし」とあるが、

 明治維新の際に売却された。

 (交通 内房線袖ヶ浦駅より徒歩七分)

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