2014年6月23日月曜日
(Heb.)ヤハウェ・YHVH(4)・יהבה
古代史ブログ講座
《古代史ブログ講座》ヘブライ・イスラエルの語義と祝祭
出典:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
〔בךא・VVA〕,בַַ,baa,
①来る、到着する ②帰る ③実現する、(出来事が)起る
(Heb.),הֻוַַ,HVVA,huvaa 連れて来られる
(Heb.),הֶוִיַ,HVYA,heviya
①持って来る、連れて来る、持ち込む
②~の原因となる、もたらす
③差し出す;(燔祭を)捧げる
(Heb.),יַוַָ,YVVA,yavoa (未来三人称単数、彼…)
(Heb.),יוַֻ,YVVA,yvua 輸入;輸入品
(Heb.),יוַַֻנ,YVVAN,yvuaan 輸入[貿易]業者
(Heb.),הָוִיל,HVVYL,hoviyl
①導く、指導する、指揮する
②持って来る、輸送する、運搬する
(Heb.),הֻוַל,HVVL,huval
①導かれる
②運ばれる、輸送される、運搬される
(Heb.),יִבֶַ,YBA,yibea 輸入する
〔אחב・AHV〕,ַַהַו,AHV,aahav 〔יָהַו〕,YAHV,yohav
①愛する、大事にする
②恋する、慕う
③好む
(Heb.),ַַהַוַה,AHVH,aahavah 愛、愛情、情愛、好み、愛好
(Heb.),ַַהֻב,AHVV,aahub (Heb.),הֻוַה,AHVVH,aahuvah
愛されている、最愛の、優しい人、好きな人、恋人
(Heb.),ָהוֶה,AVHV,ohveh
愛する人、恋人、親友、愛好者、ファン
〔וַֻה・HVH〕hivuah
(新しいものを) 生み出す、存在させる:構成する
(Heb.),הָוֶה,HVH,hoveh 〔文法〕現在(時制)
〔הַיַה・HYH〕hayah
○ある、居る、存在する
○(状態)~である
○(出来事)~が起る
○(動詞現在形と共に)~していた
○(~に)所属している
出エジプト記3:14
エヒイェ・アシェル・エヒイェ
אֶהְיֶה אֲשֶׁר אֶהְיֶה
「私はある・ところの・私はある」「私は有ってある者」
○ I am who I am א-:一人称単数 現在、אֶהְיֶה
「I」 一人称単数 現在 -הְיֶה
○ I will be who I will be
(Heb.),אֶהְיֶה,הְיֶה, HYHの一人称単数
《参考》אֶהְיֶה אֲשֶׁר אֶהְיֶה の翻訳についてです。
新改訳 「わたしは、『わたしはある。』という者である。」
新共同訳 「わたしはある。わたしはあるという者だ。」
口語訳 「わたしは有って有る者。」
岩波訳 「わたしはなる。わたしがなるものだ。
文語訳 「我は有て在る者なり」
関根訳 「わたしはあらんとしてある者である。」
フランシスコ会訳 「わたしはある〔エーイェ〕ものである。」
新世界訳 「わたしは自分がなるところのものとなる。」
KJV訳 I am that I am
NASB訳 I am who I am
NIV訳 I am who I am
NKJV訳 I am who I am
NJB訳 I am he who is
Moffatt訳 I will be what I am
LXX訳 εγω ειμι ό ωv
神ご自身がモーセに語られた
אֶהְיֶה אֲשֶׁר אֶהְיֶה についての
妥当と思われる解説を引用したいと思います。
引用する文献は、
キリスト教図書出版社の「聖書ヘブライ語」第7号、1988.3発行、
鈴木祥一郎 「旧約聖書の神」87~88頁です。
この出エジプト3:14はまことに不思議なことばです。
その一つに発音表記のことがあります。
新聖書註解(いのちのことば社)の
出エジプト記を担当された西満師は
「エヘイェ・アシェル・エヘイェ」と発音します。
後で引用するヘブル語の専門家である鈴木祥一郎師は
「エヒイェ・アシェル・エヒイェ」と表記されています。
フランシスコ会訳では3:14について
かなりの分量の註解が記されていますが、
それには「エーイェ・アシェル・エーイェ」と表記されています。
私的には「エフイェ・アシェル・エフイェ」。
英語表記では、’ehyehとなりますが、
子音הְの下に「セワ」があり、
これは音節の終わりを示す記号で発音には関係しないため、
様々な表記を可能としています。
旧約聖書中最も多く論じられてきた箇所のひとつです。
אֶהְיֶה ‘ehyeはהיהカル1人称単数未完了形、
אֲשֶׁרは関係(代名)詞ですから、語形の問題はありません。
ところが、この文章が一体何を意味しているのか、
どう訳すべきなのか、ということになりますと、
研究者の間でさえ一致した意見はありません。
動詞הָיָהは「・・である」なのか「・・になる」なのか、
この未完了形は意志、継続、未来、
その他、どのように解すべきなのか、
関係(代名)詞אֲשֶׁרの働きはどうか、
などの問題は未に未解決である、と言ってもいいでしょう。
今日までに提出されてきている
主な翻訳ないし解釈を掲げておきます。
a. 「わたしは存在するものである」.
ヤハウェの存在の絶対性を語ることばと解します
(七十人訳「エゴー・エイミーー・ホ・オーン」
εγω ειμι ό ωv)
b. 「わたしはなろうとするものになる」。
ヤハウェの絶対的自由意志が語られている、と解します。
c. 「わたしは『わたしである』である」。
神の名を問うモーセの問いに直接解答を避けた表現だ、
と見られます。
d. 神の名יהוהの語源説明で、
これが動詞היהの3人称男性単数未完了יִהְיֶהに
由来することをאֶהְיֶהによって示唆している、
という解釈。
この他にも、
例えば、ヘブライ語動詞היהは単なる「存在」だけではなく、
「働き」をも示すから、
ここには「働く神」ヤハウェが明かされているとの解釈(e)、
このאֶהְיֶהは元来ヒフィル(使役)形であり(「あらしめる」)、
ここに「創造の神ヤハウェ」を読み取ろうとする意見(f)、
2節前のאֶהְיֶה עִמָּךְ「わたしはあなたと共にいる」(3:12)と
同内容の「神とともに」の確約のことばと
解そうとする意見(g)、などがあります。
今後研究がどんなに進んでも、
唯一正しい解釈が決定されることはおそらくないでしょう。
そこでこれを無理に一つの解釈におし込めず、
色々な解釈が可能なことを承知しながら、
אֶהְיֶה אֲשֶׁר אֶהְיֶהを原文のまま心に留めておきましょう。
そもそも聖書の神とは最後のところで
人間の理解をこえた存在でしょうから。
以上のように、鈴木祥一郎氏が「今後研究がどんなに進んでも、
唯一正しい解釈が決定されることはおそらくないでしょう。」
と言われるように、
まさに聖書の神は「聖」であることを思わせられます。
神ご自身がモーセに語られたאֶהְיֶה אֲשֶׁר אֶהְיֶהの
動詞「ハーヤー」הָיָה未完了形は、
ある事柄が継続した状態を表しますので、
過去、現在、未来のいずれも用いることができます。
その例として、
イエス・キリストが「わたしは・・である」
というエゴー・エイミーは常に永遠性をもった自己啓示です。
黙示録1:4もそのヒントになります。
「常にいまし、昔いまし、後に来られる方」
(Him who is, and who was, and Who is to come) 。
もう一つ、ヘブル13:8
「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも同じです。」
もヒントになります。
西満師は「神の自存性、独一性、永遠性を表わすのに、
これほど適切なことばはないであろう」と述べています。
鍋谷堯爾師は
「『ハーヤー』の未完了形に注目し、
私たちの前に置かれて未完了』の領域が神の主権のもとにおかれ、
契約に忠実な神が、人間の側では、
予測不可能な将来を引き受けてくださっていることを
示す神の名であると考えることができます。」
(「創世記を味わう1」、
いのちのことば社、173頁)との持論を述べています。
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