「古代史ブログ講座」開講にあたって
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『My ブログ』
《考古学&古代史の諸問題》
《参考:年表・資料》
出典:歴史学講座『創世』:歴史研究家「小嶋 秋彦」
課題:千葉と上総の坂戸神社
―人身御供神事の真実と蘇我・大宮―
市場、亥鼻、千葉〔千葉中央区〕
久留里神社 治安元年(1021年)
久留里城主上総介平忠常が創祀、
もと細田妙見社(千葉六妙見の一つ)
祭神 天御中主命、伊弉冉尊、天照大神、少彦名命、木花開那姫命
須賀神社 木更津市祇園
承知年間(834~848年)に京都の八坂神社を勧請したと伝えられる。
白山神社 旧小櫃村俵田字天神台 もと田原神
祭神 菊理媛命及び弘文天皇
「小櫃村誌」
小櫃 白山神社の拝殿に向かい左側の摂社の傍らに
高さ凡そ1米数十センチの庚申塔がある。
その表面に小櫃の文字がみえる。
○表 寛文(1661~1673)九巳暦十一月吉日建之。
上総国望陀郡小櫃俵田村
○応永の頃(1394~1427)小櫃遠江守、
一家がこの地を支配していたようであるが、
小櫃氏は旧姓藤原姓、
同氏が小櫃の地名を採って改姓されたかどうかは
わからないが何か関連があるのではないかと思われる。
○上総国は養老2年(718)5月に4郡を分割して安房国とした。
上総国は11郡。そのうち武射(11郷)
○久留里市場下町
浮戸神社、寛政4年不動尊鳥居を再建
市場
◎千葉市市場町 亥鼻町(旧名猪鼻:いのはな/ちょびTsYVN)
栗坪くりつぼ(村)(君津市)上総国村高帳に「西坪村」、
寛文4年(1664)の土屋利直領知目録に村名。
◎市場町(千葉市)「千学集抄」によれば、すでに大治元年(1126年)
千葉常重が千葉城(猪鼻城・亥鼻城)に入り、城下町を築いた際、
橋より向い御達報までは町人屋敷也、
これによって河向うを市場と称したいう。
市原(市原市)市原郷 平安期からみえる郷名
「和名類聚抄抄」上総国市原郡6郷の1つ、
現在の市原市北部の市原、熊濠、門前、郡本(地名辞書)
亥鼻:いのはな(千葉市)地名は
地形をイノシシノ鼻に見立てたもの。井花とも書く。
千葉:「日本後記」の延暦24年(805年)の条には
千葉国造大私部直善人に外従五位下を授けたとの記事が見える。
ここから善人の祖先である大私部を統率して皇室に奉仕した
伴造であり、さらに千葉国造に任ぜられていたらしいことが
推測される。(角川)
◎「万葉集」巻20、「和名類聚抄」東急本などで、
知波の表記または訓がみえ、
「和名類聚抄」名博本や「延喜式」民部省ではチハ、
「拾芥抄」ではチバ、天文10年(1541)9月6日の
下総十一郡之次第(香取文書)では「千葉郡」と訓じている。(平凡社)
「和名類聚抄」下総国千葉郡千葉郷
◎亥鼻城/猪鼻城⇒千葉城 ※猪/亥:チョ・シャ chu
猪鼻山
猪鼻町の小字 西一、南一、東一、北一、亀ヶ岡、市場町、
本町三丁目、亀井、大地堂、北広町、
市場町の小字 樋ノ口、西亥鼻、東一、市場町、本町三丁目、
吾妻町三丁目、川崎、南長洲
◎井花:戦国期にみえる地名。下総国千葉荘のうち
◎都川:千葉中央区、亥鼻・市場を流れる川名。
都町:明治22年~昭和12年の自治体名。
辺田、貝塚、川野忍新田、矢作、加曽利の
5ヶ村が合併して成立。猪:ちょ=都?
院内: ind₂l 、通町公園 DoLH
《参考》
千葉郷
「和名類聚抄」所載の郷で、同書高山寺本など諸本とも訓を欠くが、
名博本では千葉郡にチハと訓を付される。
郷名より千葉郡家が置かれた郷とされるが未詳。
現大網白里(おおあみしらさと)町の南麦台(みなみむぎだい)遺跡の
9世紀中頃の住居跡から出土した石製紡錘車刻書銘に
「下総国千葉郡千葉郷」とみえる。
「吾妻鏡」文治2年(1186)3月12条に
千葉庄とみえるのをはじめ、史料上たんに千葉とある例を含め、
千葉郡のほぼ全域をさす場合と、郡内の限られた地域を
千葉と称している場合があり、こうした後代の地名所見より
古代の千葉郷の比定地を想定するのは困難である。
ただし和銅2年(709)の創建を伝える千葉寺(現千葉市中央区)が
海上観音院の寺号を郷名にちなんで改称したとみて、
同寺を含む一帯に比定する説がある(日本地理志料)。
しかし同寺は中世には池田(いけだ)郷に所在している。
当郷の比定地は蘇我比咩(そがひめ)神社の鎮座する
現中央区蘇我(そが)町や同大森(おおもり)町・浜野(はまの)町の
一帯に想定しておきたい。
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