2014年1月24日金曜日
千鹿頭神へのアプローチ(4)
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出典:野本三吉・「諏訪信仰の発生と展開」古部族研究会編188~200頁:永井企画
千鹿頭神へのアプローチ(4)
Ⅱ.宇良古山の千鹿頭神(2)
千鹿頭神の呼び名は、各地方に移るに従って変化しており、
さまざまな当て字も使われている。
今井野菊さんは、その著「洩矢民族、千鹿頭神」の中で、
次のような変化を挙げている。
「千鹿頭(ちかと・ちかつ)神
各地方における宛字
千鹿戸神・近戸神・千賀頭神・親都神・智賀戸神・近外神・
智賀頭神・千賀戸神・千賀多神・千方神・智形神・
血形神・千鹿多神・智賀都神・近津神・智勝神・千勝神・
千賀津神・千鹿津神・地勝神・知勝神
今井野菊さんの千鹿頭神踏査の中間報告によると、
その分布は、長野県から発して山梨県、埼玉県、群馬県、栃木県、
茨城県といった関東から東北の福島県にまで及んでいる。
※図:千鹿頭神分布図(今井野菊『千鹿頭神』より)
その分布図を眺めると、
を発した千鹿頭神(民族)が、
まるで山岳地帯沿いに移動して行ったような感じすらうけるのである。
例えば、その一つの流れは、茅野、諏訪といった、
いわば「八ヶ岳」山麓から、山岳に沿って群馬県の「榛名山」を経て
「赤城山」へ進み、さらに「男体山」へと流れてゆく。
栃木の「男体山」を軸にして分布した千鹿頭神は、
更に「八溝山」を通過して福島県へ移動してゆく。
大雑把な見方をしても、
こうした山岳地帯沿いの移動史が予想できるのである。
それは、諏訪を追われた洩矢民族の直系としての末裔
「千鹿頭民族」とぃう空想を膨らませてゆくのだが、
狩猟採集的生活を軸とした
「山人」的イメージとしても結晶してくるのである。
東北地方の分布が、いまだ未踏査なので、
これからの調査によらなければ何ともいえないが、
「マタギ」の生活や信仰とも、あるいは、重なりつつ、
東北にも分布しているのではないかと思われるが、
いづれにしても、
狩猟民族としての性格を色濃くもっていることは事実だ。
…略…
そして「千鹿頭・智賀都」神は、
それ以前の狩猟、採集の民族の信仰なのではなかろうか。
狩猟山賊民族としての洩矢神が、建御名方と融合し、
農耕民へと変わってゆき、
山岳民として諏訪を離れた「千鹿頭」神は、
この栃木の地で、山を下り、農耕民に変わってゆくのかもしれない。
山岳民としての山人の歴史は、時代を経るごとに力を失い、
いわば平地民と融合してしまうのではあるが、
その数少ない山人の信仰心として千鹿頭神は
行き続けてゆくのかも知れない。
山岳民としての山人の歴史は、時代をを経るごとに力を失い、
いわば、平地民と融合してしまうのではあるが、
その数少ない山人の信仰神として
千鹿頭神は行き続けてきたのであろう。
安久井さんは、そこから車を高根沢に向けた。
高根沢の御料牧場を横に見て、広大な田園地帯に入る。」
周囲を台地がかこみ、
そこから先住民の住居跡が無数に見つかっているという。
この高根沢の田園地帯に、
小児専門業として有名な「宇津救命丸」の工場がある。
安久井さんは、「宇津救命丸」の工場に行くと言うのである。
この「宇津救命丸」は、
各地にさまざまの形で残っている「家伝薬」「民間業」の一つで、
日本では有名な老舗である。
ところで、この「宇津救命丸」を創立したのは「宇津家」であり、
十六代つづいた由緒ある家柄なのである。
安久井さんは、
「宇都宮」を本来は「宇津宮」(「宇津の宮)と考えており、
何等かの形で、
この「宇津家」が関係しているのではないかとみているのであった。
古代民族(特に山岳民族)と「秘薬」との関係は、
かなり深く、洩矢民族に伝わる「一子相伝」の中にも、
この「薬法」が伝えられているのである。
洩矢民族の一子相伝の秘法
一、蟇目の神事法
一、御左口神祭祀秘法
一、大祝即位秘伝
一、御室神事秘法
一、御頭祭御符礼秘法
一、御射山神事はじめ年内七十五度の神事法秘伝
一、神長家伝「諏訪薬なる秘法」
山野に生えている草木からとる薬と、
山にいる動物(猿や熊、鹿など)の内臓や骨、角からとる薬による調合で、
かなり進んだ医薬があったのかも知れない。
特に、千鹿頭神社に隣接するようにして
薬師堂が建っていることが多く、
千鹿頭と薬との関係も見逃せないテーマではある。
とにかく、その日、安久井さんと一緒に、最近できたばかりの
「宇津史料館」をみせていただいた。
「史料館」には、古文書から製薬道具、宇津家の家系図、生薬標本など、
貴重な史料が展示されている。
高根沢工場の研究部長である平石辰男さんの説明によると、
1597年(慶長2年)に、
当時の下野国の国主、宇都(津)宮家の滅亡のより、
同家の家臣であった宇津権衛門は、
この地(下野国高根沢西根郷)に帰農し、
半農半医の家業の中で「救命丸」を施策として
地域の人々のために出したということである。
宇津家五代重上という人は、江戸に出て医学を修得し、
本格的に「救命丸」は世に出ることになったが、
それ以前の「施薬」としての役割の時代がここでは重要なことだ。
宇津家が、もし「宇都(津)の宮」の中心的存在であったとすれば、
そこにも「施薬」の伝承があったろうし、
この地に流れて来た千鹿頭神(民族)との接触が
あったと考えられなくはないのである。
(勿論、時代をはるかに遡ることであるので、
軽々に言えないことではあるが……)。
近代的な工場の奥には、
宇津家の旧屋敷がそのまま残っており、
大きな長屋門や書院が見える。
その中に、「誠意軒」と呼ばれる高床式、入母屋造りの家がある。
ここが、「秘薬」調合の場所であり、
この「誠意軒」には当主しか入れず、当主は斎戒沐浴して、
この中で調合に励んだという。
従って当主以外、唯一人として中に入ることは許されず、
この「秘薬」は、
幕末まで外に洩されることはなかったとも言われている。
どこか、
洩矢民族の「一子相伝」を思わせるものがあるような気がする。
ところで、「史料館」に並べられた
宇津救命丸の原料生薬の展示をみて、ぼくは考えさせられたのだが、
そこに見える原料生薬のほとんどは海外からの輸入品なのである。
たとえば
「チョウジ」はボルネオ。
「ジャコウ」「ゴオウ」は中国。
「カンゾウ」「チョウセンニンジン」は朝鮮
といった具合である。
わずかに日本産の原料は
「オウレン」「野生ニンジン」ぐらいのもの。
中でも「ジャコウ」は、
中国産の「ジャコウジカ」のオスにできる「麝香」のことであり、
どうしても中国から輸入するしかないのである。
以下略……
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