2013年10月6日日曜日

倭姫命世記:御饌つ国、志摩


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 『倭姫命世記:御饌つ国、志摩』

 倭姫命は、御船に乗り、御膳御贄処を定めた。

 嶋(志摩)の国の国崎嶋に幸行し、「朝御饌、夕御饌」と詔して、

 湯貴潜女等を定め、還るときに神堺を定めた。

 戸嶋、志波崎、佐加太岐嶋を定め、

 伊波戸に居て、朝御気・夕御気の処を定めた。

 倭姫命がここに御船を泊めると、

 鰭広鰭狭魚、貝つ物、奥つ藻、辺つ藻が寄り来て、

 海の潮は淡く和み、よって淡海浦となづけた。

 伊波戸に居た嶋の名を、戸嶋となづけ、刺す処を柴前となづけた。

 その以西の海中に七つの嶋があり、以南は潮淡く甘く、

 その嶋を淡良伎の嶋となづけ、

 潮の淡く満ち溢れる浦の名を、伊気浦となづけた。

 その処に現はれ参上して、

 御饗を仕へ奉った神を淡海子神となづけて社を定め、

 朝御饌・夕御饌嶋を定めた。

 還り幸行して御船を泊めた処を、津長原となづけ、津長社を定められた。

 二十七年[戊午]秋九月、

 鳥の鳴声が高く聞えて、昼夜止まず囂ししかったので、

 「此、異し」と宣して、

 大幡主命と舎人紀麻良を、使に遣って鳥の鳴く処を見させた。

 行って見ると、嶋国の伊雑の方上の葦原の中に稲一基があり、

 根本は一基で、末は千穂に茂ってゐた。

 その稲を白真名鶴が咋へて廻り、つついては鳴き、

 これを見顕すと、その鳥の鳴声は止んだ。かく返事を申上げた。

 倭姫命が宣ふに、

 「恐し。事問はぬ鳥すら田を作る。皇太神に奉れる物を」と詔して、

 物忌を始められ、

 彼の稲を伊佐波登美神をして抜穂に抜かしめて、

 皇太神の御前に懸久真に懸け奉り始めた。

 その穂を大幡主の女子乙姫に清酒に作らせ、御餞に奉った。

 千税を始奉る事、茲に因る也。

 彼の稲の生ひし地は、千田となづけ、嶋国の伊雑の方上にある。

 その処に伊佐波登美の神宮を造り奉り、皇太神の摂宮と為した。

 伊雑宮がこれである。

 彼の鶴真鳥を名づけて大歳神といふ。

 同じ処の税を奉る。

 またその神は、皇太神の坐す朝熊の河後の葦原の中に、石に坐す。

 彼神を小朝熊山嶺に社を造り、祝奉りて坐す。

 大歳神と称ふるは是なり。

 また明る年秋のころ、真名鶴は、皇太神宮に向かって天翔り、

 北より来て、日夜止まずに翔り鳴いた。

 時は昼の始め。

 倭姫命は、異しまれて、足速男命を使に見させた。

 使が行くと、鶴は佐々牟江宮の前の葦原の中に還り行きて鳴いてゐた。

 そこへ行って見ると、葦原の中から生へた稲の、

 本は一基で、末は八百穂に茂り、

 (鶴は穂を)咋ひ捧げ持って鳴いた。

 使が見顕すと、鳴声は止み、天翔る事も止めた。

 かく返事を申上げた。

 倭姫命は、歓ばれて詔ふに、

 「恐し、皇太神入り坐さば、鳥禽相悦び、草木共に相随ひ奉る。

  稲一本は千穂八百穂に茂れり」と詔して、

 竹連吉比古等に仰せて、初穂を抜穂に半分抜かしめ、

 大税に苅らしめ、皇太神の御前に懸け奉った。

 抜穂は細税といひ、大苅は太半といひ、御前に懸け奉った。

 よって、天都告刀に「千税八百税余り」と称へ白して仕奉る。


 また「我が朝御饌夕御饌の御田作る家田の堰の水の道の田には、

    田蛭穢しければ、我田には住まはせじ」と宣った。

 (以下略)


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