古代史ブログ講座
銅鐸の古代呼称が判明した(46)我が国の本当の建国は、紀元前3世紀
しかし大学講義録30と大学講義録31で
「出雲の誕生は5世紀よりあと」だとお話しした。
それは出水(イズン)人が移住した先が大阪の和泉(イズン)であって、
そのときのイザナキの尊が履中天皇で、
それを継ぐ倭王・興が失政で国を失ったとき、
その一族が出雲(イズン)まで逃げたから、
そこが出雲(イズン)になったのだった。
らウッタラの大国主は仁徳天皇系の亡命者とは無関係である。
それは当然で、
弥生時代のウッタラと、
古墳時代の亡命者が同じであるはずがない。
同じなのは漢字の当て字だけである。
同じことは幾人ものイザナキの尊が実在する例でも見た。
同じ名だから同一人だとしてきた在来の神話学が、
根底から崩れ去っていることが、
ご理解になれたと思う。
では、銅鐸とサカ~サタは無関係であろうか?。
これはすでに見たように切っても切れない関係にある。
それは紀元前の移住にも仁徳天皇系王朝の大移動にも、
つねについて回った標識地名である。
これもまた、
我が国の建国が弥生時代の早期だったことを証明している。
神武東征にこだわらなければ、
水稲の分布からみて初代のウッタラの東遷は、
紀元前3世紀のアソカ王仏教宣布団派遣直後だとみていいし、
卑弥呼の夫、仲哀天皇・ソナカをみても、同系のアソカ仏教宣布天皇で、
さらにその伝統を受け継いだのが仁徳天皇朝だったのだから、
本当の建国と天皇家の皇統譜は、
在来の説より3世紀、さかのぼるのが正しいのである。
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
(アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている)
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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