2014年9月13日土曜日

銅鐸の古代呼称が判明した(38)タタラとタタールの語源は大多良法師(ダイタラボッチ)

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 銅鐸の古代呼称が判明した(38)

タタラとタタールの語源は大多良法師(ダイタラボッチ)

 なぜなら

 「タタラ」はタタール人が列島に持ち込んできたものではない。

 それはタタラの語源が「大多良法師(ぼっち)」の

 「大多良(タタラ)」だからである。

 さらにその語源がウッタラだったことは本講でお話しした。

 彼の名がタタラを意味するようになったのは、

 そのタタラが銅鐸製作用の最新機具として、

 当時銅鐸圏にいた倭人たちの驚異の的になったことを意味している。

 また大多良法師(ぼっち)の伝説は

 「巨人が土を運んでいった話」を芯(しん)にして、

 その土がこぼれて山になったとか、

 池やくぼみが彼の足跡だというマンガ的なものだが、

 その起源は銅鐸工房の近くでは銅を溶かす登り窯(がま)を造り、

 また鋳型(いがた)を造るために大量の土を掘った、

 その跡が大多良法師の足跡だといわれ、

 それが巨人伝説を生んで、

 次第に尾鰭(おひれ)がついたのである。

 この話題を運んでいったことがわかる。

 銅鐸圏外では伝説だけが広まった。

 そうした地域は古代の鉱物資源産地か金属工業地が多いから、

 やはりインド系の金属技術者たちが

 巨人伝説との錯綜(さくそう)は九州に起源がある。

 南九州では

 八幡の家来の大人(おおびと)弥五郎が山を造った話になり、

 九州北部では百合若(ゆりわか)大臣が山を造る。

 これは本州では弁慶に変化する。

 中国では唐代に

 北方の異族を韃靼(ダッタン)と当て字している。

 これがタタール人だから、

 その時代差をみてもウッタラのほうが先祖で、

 タタール人は10世紀も後の子孫にすぎない。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
 

 
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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