古代史ブログ講座
銅鐸の古代呼称が判明した(21)倭人=古墳人は確定的
倭人が塚を造った事実は、
卑弥呼の死後にも彼女のために「大作冢 径 百余歩」と書いてある。
「一歩」というのは魏の尺度で今の140cmだから
「百数10mの長径をもつ大きな塚、
すなわち古墳を大がかりに造った」というのである。
それ以後の天皇家は間違いなく古墳を造る人々だから、
その卑弥呼の古墳を造った人々と
同じ習俗をもった人々だったことは疑いない。
もちろん一般の国民はそんな大古墳は造れないが、
小さくてもやはり塚を造る人々だったことはその記事でわかる。
そして同じ習慣は、
死者を土葬する地方では昭和時代になっても続いていたし、
天武天皇と持統天皇夫妻は、
火葬でありながらやはり古墳形式の墓になっている。
しかし塚と古墳は銅鐸を使っていた先住民・ヤオ人たちも造っていたから、
これで人種を特定することはできない。
では「鬼道は仏教か?…」という問題はどうすれば解けるか?。
それは次の記事が完全に立証していることを見逃してはならない。
①「始死停語喪十余日(家族が死ぬと先ず仕事を
全てやめて十余日の喪に服し始める)
当時 不食肉(その服喪中は動物の肉に類するものは食べない)
喪主 哭泣(喪主は大声を挙げて泣く①「儀式」を続けるが)
他人 就歌舞飲酒(他人は酒を飲んで歌い、踊ったりして脹やかに騒ぐ)
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
(アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている)
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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