2014年9月4日木曜日

銅鐸の古代呼称が判明した(15)唐古など銅鐸圏はヤオ人居住地

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 銅鐸の古代呼称が判明した(15)唐古など銅鐸圏はヤオ人居住地

 ヤオ人が古代近畿圏にいたことは、

 大阪府の生駒山の西麓に八尾(やお)市という

 大きな地域があることやヤオ姓の存在で分かる。

 また弥生時代の弥生も、

 土器の出土地名から[弥生はヤオ]への当て字であったことが分かる。

 当時の大阪府中央部は河内湖の水底下で、

 残る一帯の支配者が八尾人だったことも、

 その地理関係で分かる。

 今、中国とその周辺のヤオ人は山地民だから、

 古代八尾人は生駒山から東の山地・奈良に住んだ集団本体の一部で、

 漁業と野菜供給を分担した部族「ヤオヤ=八百屋」だったはずである。

 現代でも市域を形成するほどの地名を残したのは、

 彼らの勢力が強かったことを示している。

 そこは過去に[神武東征]の舞台と考えられてきた場所で、

 有名な[クサカ坂]はすぐ隣接する東大阪市にあって、

 市境からわずか2キロメートルのところにある。

 だがそこで戦い、後に奈良の邪馬臺(だい)政権を倒して制圧したのなら、

 ヒミコの[邪馬台国]は銅鐸人を主要な住民にしていたはずである。

 帯方郡使はそれを鬼道の重要な特徴として必ず記録したはずだが

 『倭人章』には銅鐸も鐘楼も、

 ヤオ人に一致する風俗も書いてない。

 しかしその銅鐸をもった弥生人が住んでいたから、

 近畿圏に今、八尾市という都市が現存しているのである。

 どうみても邪馬台国も神武天皇の東征も、近畿地域ではありえない。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ 

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