古代史ブログ講座
銅鐸の古代呼称が判明した(15)唐古など銅鐸圏はヤオ人居住地
ヤオ人が古代近畿圏にいたことは、
大阪府の生駒山の西麓に八尾(やお)市という
大きな地域があることやヤオ姓の存在で分かる。
また弥生時代の弥生も、
土器の出土地名から[弥生はヤオ]への当て字であったことが分かる。
当時の大阪府中央部は河内湖の水底下で、
残る一帯の支配者が八尾人だったことも、
その地理関係で分かる。
今、中国とその周辺のヤオ人は山地民だから、
古代八尾人は生駒山から東の山地・奈良に住んだ集団本体の一部で、
漁業と野菜供給を分担した部族「ヤオヤ=八百屋」だったはずである。
現代でも市域を形成するほどの地名を残したのは、
彼らの勢力が強かったことを示している。
そこは過去に[神武東征]の舞台と考えられてきた場所で、
有名な[クサカ坂]はすぐ隣接する東大阪市にあって、
市境からわずか2キロメートルのところにある。
だがそこで戦い、後に奈良の邪馬臺(だい)政権を倒して制圧したのなら、
ヒミコの[邪馬台国]は銅鐸人を主要な住民にしていたはずである。
帯方郡使はそれを鬼道の重要な特徴として必ず記録したはずだが
『倭人章』には銅鐸も鐘楼も、
ヤオ人に一致する風俗も書いてない。
しかしその銅鐸をもった弥生人が住んでいたから、
近畿圏に今、八尾市という都市が現存しているのである。
どうみても邪馬台国も神武天皇の東征も、近畿地域ではありえない。
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
(アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている)
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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