古代史ブログ講座
銅鐸の古代呼称が判明した(14)唐古で出土したダブル妄想の桜観図
1992年5月に奈良県の唐古(からこ)・鍵(かぎ)遺跡から出て
トップ・ニュースを飾った、
あの中国ふう屋根飾りのついた家の絵のある土器片は、
本当に邪馬台国畿内説に有利だろうか?
これまで発見されなかった絵が出てきた。
それで考え方が変わる、ということはなんの証拠だろう?
それは
「過去の考古学が[未発達]であって、
そのあたりに邪馬台国があったという証拠を一つももっていなかった」
という事実の証拠ではある。
でなければ小さな絵が一つ出てきたという程度のことで、
大騒ぎすることはない。
ではその絵が間違いなく中国の知識による
建築がそこにあったという証拠になるだろうか?
その絵は漢の建築様式である瓦葺きとして描かれている。
そのあたりに大建築があったというのなら、
その時代の遺跡からその大建築相応の大量の瓦が出土し、
柱跡が出土し、またその建築に付随する付属建物や、
同じ型式の瓦葺き民家なども出土しなければならない。
しかし仮にそれらが全部、
その付近または畿内から発掘されたとしても、
それが邪馬台国があった証拠なのだろうか?
それはその地域にも、
漢風の家を建てる人が住んでいたという事実は証明するが、
その人々が倭人だという証明が成立しなければ、
この土器片は邪馬台とはなんの関係もない。
発表者は『倭人章』の[楼観]に相当するとしているが、
邪馬台の楼観とは絵の建物に一致するという立証なしで、
邪馬台と結びつけて発表することは許されない。
また当時の中国の楼閣は階段は必ず室内にある。
ところがこの土器の絵は階段ではなく
細い梯子(はしご)が屋外に立て掛けてある。
発見者はこれを二階建て以上あった高層建築だというが、
それなら最上階にも梯子が描かれていなければならない。
それがないのはこの最上階は装飾的な屋根飾りか、
唐古から銅鐸(どうたく)が出土しているから、
その鐘楼(しょうろう)程度のものである。
この銅鐸は古代インドシナ半島に遺物[銅鼓(どうこ)]を残し、
中国南西部からタイ、ミャンマーにかけて広く分布している
今も銅鼓を使う人々[ヤオ人]が製作使用したものであることが、
私(加治木義博)の研究で明らかになっている。
その人々は中国に住んでいなくても今も漢字と、
それをもとに作った独特の[ヤオ文字]をもっている。
タイにはこうしたヒルツライブ(山地移住民)を指導する国家指導員がいて、
私(加治木義博)も各大学にいる多くの指導員と親しくし
多くを教わったが、
(本章・扉の)写真の方も国籍はタイだがヤオ出身者の一人で、
サインは漢字でも書ける人である。
その宗教は[道教]であって、倭人の[仏教]ではない。
もうよくご存じのように
[倭(うわい)]というのは[仏教徒]ということなのだから、
銅鐸をもった唐古人は[道教徒]のヤオ人であり、
紀元前1000年から日本列島にいたカリエン人(和人)と、
2世紀以後に入った倭人との混合体である邪馬台とは、全然無関係である。
この唐古出土土器の問題報道は、
その建物が重層になっている以上に、
架空の邪馬台妄想が重層にダブっているのである。
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
(アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている)
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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