古代史ブログ講座
銅鐸の古代呼称が判明した(18)奈良に散在する古墳は先住民のもの
「ヤマト=山教徒」の天武としては、
自分の宗教で君臨したいのは山々だが、
前政権の残党が、いつ勢力を盛り返してくるかわからない、
という中で、できるだけ安全を計るために、
あらゆる手段を用いる必要に迫られた。
何よりも好都合だったのは彼の立場が、
倭国を滅ぼした天智系を倒して倭国人の仇を計った形になる点である、
そこで彼は形の上では天智天皇の義理の娘だが、
本当は孝徳天皇の実子であるのちの持統・元明両天皇姉妹を妻に
(実質は倭国時代の女王制度を復活した形に)して、
現在の奈良の明日香村に余命を保っていた
蘇我=ソナカ大王家の中心人物・
蘇我倉山田石川麻呂(持統・元明両天皇の祖父)の居住地に
[飛鳥浄御原]の都をおいたのである。
これは3世紀に壹與を立てて卑弥呼政権を追放した
初代・神武天皇の垂仁天皇・位宮の故知にならった形になっているから、
当時は邪馬壹国の歴史はよく知られていたとみていい。
彼は根強い倭人の力を取りこむことが
政権安定と防衛の第一手段だと考えたのだ。
以上が「都を置くには最悪の条件の土地」奈良に、
天武があえて都を置いた理由である。
彼以前に、そんな場所に都を置いたものはいない。
そこにある大阪倭国時代以前の遺跡は、すべて先住民のイナ(殷)人や、
銅鐸と河内音頭を残した歌のうまい人々ヤオ(謡・揺=八尾)人の
作った墓地遺跡なのである。
その事実は古墳自身が立証している。
その配置一つみてもわかる通り、
すべてがイナ人の測量技術と、殷時代からの尺度によるも町ばかりだ。
被葬者は倭人でも工事をしたのは先住民だったことがわかる。
そして天武以後は葬制が古墳ではなく墓に、そしていったん、
土葬したものを後年改めて火葬にする南島型葬制に、
すべてががらりと変っているのである。
これに関連のある謎も簡単に解ける。
一時大騒ぎされた高松塚古墳は、
すべてが高句麗式だから670年より前の倭国時代のもので、
時代も宗教も古墳であることも様式もすべてが、
山教徒の天武一族のものではないと、
はっきり断言できる。
それは、一時唱えられた天武・持統の子で元明天皇の夫であった
「草壁皇子」の陵では絶対にない。
また過去の史学がいうように、遅くとも紀元前後に神武天皇が
「ヤマト朝廷」を奈良に置いたのなら、
古墳時代はその時から始まり、
奈良の周辺に紀元前後からの古墳がなければならないが、
そんなものは一つもない。
天皇陵とされているものも、
架空とはっきりわかっている天皇の陵まであることで、
それが政策用のものだと自分で証明している。
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
(アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている)
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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