古代史ブログ講座
銅鐸の古代呼称が判明した(20)明瞭に仏教による葬儀
卑弥呼が「鬼道で国民をうまく指導していた」というのは
もう常識になっている事実だから、
「その結果どういう生活現象が見られたか?」
と考えるのが正常な頭の働きであり、
正しい文献研究態度である。
しかしもちろん勝手な創造は許されない。
『魏書倭人章』に記載されている
記事=Aのほかに、
『記・紀』その他の共通の登場者、
たとえば卑弥呼と天照大神の記事の一部分のような、
この二人の人物は「同一人である」というふうに、
その相互の関連が確実に
「立証済みの記事=B」や、
「儀式や慣習、発掘出土品など疑いなく実在していたもの=C」
などと比較検討する必要がある。
倭人の宗教行動は『魏書倭人章』に
「幾種類もの史実」が詳しく明瞭に記録されている。
「其死 有棺 無槨 封土 作冢 始死 停喪十余日 当時不食肉
喪主 哭泣 他人 就歌舞飲酒」
これを正確な日本語に翻訳すると
「其(倭人に) 死(死者が出た時の習慣は)
有棺(木製の棺は作るが)
無槨(木や石や粘土などで外囲いを造ることはしない)
封土(そのままで土葬して)
作冢(土を盛り上げて塚を造る)」
以上は
①「死者の死体の処理法」である。
ミイラ葬でも風葬でも水葬でも火葬でもなく、
②「土葬」だったことがまずはつきりと「区別」できる。
これは、今では衛生上の配慮から
特殊な地域以外は市外を火葬にしてすぐ葬るが、
それ以外は
③「現在の日本の習慣とほとんど変わらない」。
この今の習慣というのは
④「仏教による葬儀の習慣」のことである。
また木棺であることは、
⑤「当時、甕棺葬しかなかった北部九州での記事ではない」
こともわかる。
帯方郡使が書いたこの実見談は、
それが北部九州以外の土地での観察であることを証言している。
それはまた
⑥「甕棺葬について何一つ書いていない」ことでも
重ねて立証されている。
当時の中国では木棺葬が常識で、
甕棺葬は珍しかったに違いないから、
帯方郡使が甕棺葬を見たなら必ず
特筆大書しなければならない。
その記事が「ない」ことは彼が倭人を観察した地域が
北部九州ではなかったという動かない証拠なのである。
ではそれは近畿地方だったか?…。
私(加治木義博)は兵庫県伊丹市勝部地区の
大阪空港拡張工事に伴う文化財発掘調査に従事して、
弥生中期の木棺葬群を実見しているが、
当時の近畿地区には銅鐸が広く実在していた。
銅鐸は儀式用具だから葬儀にも必す使用されたはずで、
見聞をしたなら必ず記録するのに、
⑦「銅鐸についても何一つ書いていない」。
これは彼が
⑧「近畿地方を全く知らないことの動かぬ証拠」である。
帯方郡使の道程記録では邪馬壹国は
南九州以外には存在しないが、
それは葬制をみてもこんなに明瞭に立証されているのである。
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
(アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている)
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
0 件のコメント:
コメントを投稿