2014年9月8日月曜日

銅鐸の古代呼称が判明した(20)明瞭に仏教による葬儀

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 銅鐸の古代呼称が判明した(20)明瞭に仏教による葬儀

 卑弥呼が「鬼道で国民をうまく指導していた」というのは

 もう常識になっている事実だから、

 「その結果どういう生活現象が見られたか?」

 と考えるのが正常な頭の働きであり、

 正しい文献研究態度である。

 しかしもちろん勝手な創造は許されない。

 『魏書倭人章』に記載されている

 記事=Aのほかに、

 『記・紀』その他の共通の登場者、

 たとえば卑弥呼と天照大神の記事の一部分のような、

 この二人の人物は「同一人である」というふうに、

 その相互の関連が確実に

 「立証済みの記事=B」や、

 「儀式や慣習、発掘出土品など疑いなく実在していたもの=C」

 などと比較検討する必要がある。

 倭人の宗教行動は『魏書倭人章』に

 「幾種類もの史実」が詳しく明瞭に記録されている。

 「其死 有棺 無槨 封土 作冢 始死 停喪十余日 当時不食肉 

  喪主 哭泣 他人 就歌舞飲酒」

 これを正確な日本語に翻訳すると

 「其(倭人に) 死(死者が出た時の習慣は) 

  有棺(木製の棺は作るが)

  無槨(木や石や粘土などで外囲いを造ることはしない)

  封土(そのままで土葬して)

  作冢(土を盛り上げて塚を造る)」

  以上は

 ①「死者の死体の処理法」である。

   ミイラ葬でも風葬でも水葬でも火葬でもなく、

 ②「土葬」だったことがまずはつきりと「区別」できる。

   これは、今では衛生上の配慮から

   特殊な地域以外は市外を火葬にしてすぐ葬るが、

   それ以外は

 ③「現在の日本の習慣とほとんど変わらない」。

  この今の習慣というのは

 ④「仏教による葬儀の習慣」のことである。

   また木棺であることは、

 ⑤「当時、甕棺葬しかなかった北部九州での記事ではない」

   こともわかる。

   帯方郡使が書いたこの実見談は、

   それが北部九州以外の土地での観察であることを証言している。

   それはまた

 ⑥「甕棺葬について何一つ書いていない」ことでも

   重ねて立証されている。

   当時の中国では木棺葬が常識で、

   甕棺葬は珍しかったに違いないから、

   帯方郡使が甕棺葬を見たなら必ず

   特筆大書しなければならない。

   その記事が「ない」ことは彼が倭人を観察した地域が

   北部九州ではなかったという動かない証拠なのである。

 ではそれは近畿地方だったか?…。

 私(加治木義博)は兵庫県伊丹市勝部地区の

 大阪空港拡張工事に伴う文化財発掘調査に従事して、

 弥生中期の木棺葬群を実見しているが、

 当時の近畿地区には銅鐸が広く実在していた。

 銅鐸は儀式用具だから葬儀にも必す使用されたはずで、

 見聞をしたなら必ず記録するのに、

 ⑦「銅鐸についても何一つ書いていない」。

   これは彼が

 ⑧「近畿地方を全く知らないことの動かぬ証拠」である。

   帯方郡使の道程記録では邪馬壹国は

   南九州以外には存在しないが、

   それは葬制をみてもこんなに明瞭に立証されているのである。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ 

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