古代史ブログ講座
銅鐸の古代呼称が判明した(19)観音信仰の背景にあるもの
卑弥呼の転向は異文化の流入にある。
異文化が流入したからといって思想的なものだけでは卑弥呼は転向しない。
ここ2000年来、日本の農業、水稲、米作を支えてきたのは女性である。
つまり転向は水田、米作、農業革新を伴っているのである。
稲作は紀元前早くから導入されていたが、
卑弥呼の時代、急速な大規模化の発展段階になっていた。
それはソナカ政権の拡大も意味している。
元来
「水田耕作の農業技術」
「組織づくり」
「新品種の導入」
「銅鐸」それらは
紀元前アショカ仏教宣布「折伏」の最大武器であった。
とっくに倭人国に米作はあったが小規模であったのかもしれない。
「農業」を武器に
「サニハ文化」の上に「銅鐸」を持ち込み普及が図られた。
銅鐸が天地神明造の
「ヌ・カン・ティ」=「主・男神・女神」の
「牛」を掲げた「家」の図柄を持っている事は
その源流が解るがこれは本来どちらのものだろう。
この問題は機会を別にしよう。
いずれにせよ卑弥呼は女性を導く立場にある。
本来女性は「生誕」を担うものである。
現代でも作物の種子生産は「生誕であり神秘を伴う自然のもの」。
それを扱うのは女性の命題である。
この農業仏教台頭の中で葛藤の末、
卑弥呼が編み出したのが「観音信仰」である。
そこには女性特有の高度な知見がある。
今に残る「早乙女」という言葉は
従来解釈されてきたような意味ではない。
「早乙女」とは
「卑弥呼配下の女性達」
「卑弥呼に共鳴」する信奉者のことである。
名づけて卑弥呼は女王名で個人名ではない。
本名、いろいろある。
呼び名その名を頂戴して卑弥呼配下、
傘下の「種蒔き農業」をする高度な女としての
「思想や生活の知恵」を獲得した女性達を
「早乙女」と呼んだのである。
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
(アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている)
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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