古代史ブログ講座
銅鐸の古代呼称が判明した(13)弥生・銅鐸人はヤオ人
また厳密にいうと[倭人]は[弥生人]とも違います。
そのことは『倭人章』が[銅鐸(どうたく)]について
何一つ書かないことではっきりわかります。
弥生時代後期の本州西部には銅鐸を使う人たちが住んでいましたが、
古墳時代には銅鐸は姿を消しました。
勢力の交替があったことがはっきりしています。
当然倭人は弥生人と区別しなければなりません。
[銅鐸人]の弥生人は、
紀元前のベトナム・ドンソン遺跡から立派な銅鼓が出ているので、
そのあたりからの移住者だったことがわかっています。
中国には今も銅鼓を太鼓のように使っている
ヤオ(揺)人と呼ばれる少数住民がいますが、
日本でも銅鐸の出土する地域には
八尾、八百井、矢追、八百板などという地名や姓が残っています。
これから考えると弥生時代の名の起こりになった
東京都の「弥生」町の名も、
古代にはヤオ人が住む「弥=ヤ・生=オ」と呼ばれた土地だったものが、
時が経つにつれて文字のせいでヤオイと読まれ、
ヤヨイと訛ったものだとわかります。
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
(アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている)
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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