古代史ブログ講座
銅鐸の古代呼称が判明した(34)天武政権の遺物「ヤマト」。銅鐸仏教の遺物「ナラ」
本号の10頁でおわかりの通り、
近畿政権が生まれてからは、
国号はまず倭国(ウワイ)、
次いで日(ヒ)の本(モト)、
最後に「ヤマト」へ3転した。
倭国は孝徳天皇までで、670年に日本、
対外的にはこれが幕未まで続いたが、
国内では天武天皇朝からヤマト朝廷という発音で呼ばれてきた。
おわかりのように、
それは「朝廷の名」で、
奈良の固有名詞ではなかった。
だが京都などの例でおわかりのように、
都が移っても今度は地名として残るという原則があって、
奈良の固有名詞のように錯覚されてきた。
しかし前頁まででよくおわかりのように、
その名は政権の所有者名であって、
ヤマトとは霧島に住むギリシャ系信仰の持ち主の子孫が、
旧巴利国の倭人=仏教徒と合流して組織した
天武天皇政権の呼び名の遺物だったのである。
では近畿倭国以前の、
銅鐸文化をもった人々はなんと呼ばれていたか、
古い方から消えるのが地名の原則で、
わかっている三国号以外は不明だが、
奈良県の広域、
ことに平城京址を含む地域の地名である奈良に匹敵するものはない。
するとパーリ語で「北方」を意味する名の長老
uttara ウッ夕ラが南九州から北上してきて、
飛鳥(アスカ)を中心にアソカ仏教を布教した時の
仏教荘厳具(しょうごんぐ)が銅鐸=釣鐘(つりがね)で、
ナラとはパーリ語の「nara 人民」の国か、
「naraka 奈落・死者の国」かだということになるが、
その大量の墳墓群をみると、後者のほうが納得がいく。
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
(アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている)
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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