古代史ブログ講座
銅鐸の古代呼称が判明した(35)天皇家は3千年前から、古墳は仏教宣布団のもの
これは神武天皇が現皇室の皇祖なら、
絶対に銅鐸人ではないことを証言している。
また仮に勝山古墳が2世紀末の前方後円墳で、
それが卑弥呼または一族のものなら、
卑弥呼は倭迹迹日百襲姫だと私たちも確認済みなのだから、
例の箸墓問題を無視しても父帝・高霊天皇の古墳や、
さかのぼって同じ皇統の租・神武天皇の陵墓もまた、
紀元前か1世紀の古墳として奈良県下になければならない。
ところが現実には、
卑弥呼以前の天皇たちの古墳はもちろん、
その皇族の古墳、
少なくとも数代100を超えるはずの古墳が1つもない。
今「1片」の木坂さえ発見できたほどの、
国立、県立ともに最高の研究機関を2つももつ奈良の考古学が、
大量にあるはずのその古墳を、
なぜ?1つも発見できないでいるのか?。
これは「古墳時代」が百年古くなってもダメで、
大和説の致命的敗北にとどまらず、
天皇家は古墳時代以後に誕生したとしてきた考古学の欠陥を、
みずから立証しているのである。
私たちは今から3000年以上前に、
世界に貝貨幣を供給した
高句麗(カリエン)王家が実在したことと、
その子孫が卑弥呼であることを、
充分知り尽くしている。
天皇家は3世紀や4世紀に発生したのではない。
古墳時代をつくったのはアソカ仏教宣布団である。
3世紀に卑弥呼とソナカ=仲哀天皇が結婚して、
初めて天皇家と古墳が結びついたことを熟知しているのだ。
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
(アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている)
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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