古代史ブログ講座
銅鐸の古代呼称が判明した(10)インドからの古代文明
インドが早くから文明の開けた亜大陸であったことは、常識である。
東南アジアには各地にインド人を王にいただく国々が、
近世まで栄えていた。
日本も仏教の大きな影響下に成長したことを疑う人はいない。
いうまでもなく仏教もインド文化である。
ところが、そのことが日本人のルーツを、
わかりにくくし、邪魔になっていた。
なぜなら祇園祭りのような行事は、
仏教といっしょにはいってきたものと錯覚されて、
深く考えてみようとはせず、
いまだにそう信じきっている学者さえあるほどである。
しかし、写真ページで見ていただいたように、
すでに縄文時代から、
インド系の信仰が中国、日本に広がっている。
それは何も不思議ではない。
もっと早く、もっと遠くのメソポタミアから、
農耕文化がセットになって、
中国東部へ流れこんでいたのだから……
(日本人のルーツ:76ページ参照)。
また弥生時代には、
水稲や銅鐸といったインド~東南アジア文化が、
はっきりした遺物を大量に残している。
これを文化だけが伝わったとするには多くの無理がある。
どうしても民族が、肉体ごと移住してきたと考えるほかない。
なぜ、インドがそんな移民を送り出したのか、
答えは簡単である。
インドは現代でさえ、
あふれる人口をどうすることもできないでいる。
産児制限を知らず、
しかも繁栄を極めていた時代には、
人々は東へ西へとあふれ出るほかなかった。
当時の日本列島だけ嫌われたとは考えられない。
※出典:加治木義博『日本人のルーツ』132頁
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
(アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている)
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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