古代史ブログ講座
銅鐸の古代呼称が判明した(22)青銅武器圏と銅鐸圏が立証するもの
「地図」
『古代史発掘5・大陸文化と青銅器』(講談社-昭和49年)127ページのコピー
「原田大六『邪馬台国論争』1969年311頁第80図により作成」
「青銅武器」分布圏
「銅鐸」分布圏
『古代史発掘5・大陸文化と青銅器』
(講談社-昭和49年〉127頁のコピー
「原田大六『邪馬台国論争』1969年311ページ第80図により作成」
という説明がある。
一見してわかるように
「伊都国中心の青銅武器圏」と、
「大阪中心の銅鐸圏」とに分かれている。
『魏書倭人章』の対馬から伊都国までが
「倭人圏」であることはいうまでもないし、
「東に海を千余里渡った国も皆倭種」という記事と
四国の「青銅武器圏」も
完全に一致しているから、
その東の近畿が、
それと対立する「銅鐸圏」だったこも説明はいらない。
青銅武器は本来は武器ではあったが墓に副葬されているので
「死者を守る」という
信仰具に変化していたことがわかるし、
現在も鍾の仲間が多くの宗教儀式に使われる重要な
「日常祭具」であることで、
銅鐸もまた信仰上の器具であったことは疑いない。
だが『魏書倭人章』は全く銅鐸を知らない。
銅鐸は毎日の礼拝に欠かせぬ日常祭具であり、
また儀式の荘厳と文化の誇示用の宝器でもあるから、
帯方郡使のような重要な使節の来朝に際しては、
殊更に見せびらかす性質のものである。
しかもその帯方郡使は野草の種類から人々の仕草や習慣まで
詳細に観察して記録しているのに、
銅鐸の記事は一字もない。
宗教は常に他の宗教を敵視する。
それは古代ほど激しく互いに相争った。
「倭人圏」は絶対に「銅鐸人圏」ではない。
この一事だけでも
近畿圏が卑弥呼らの倭人圏ではなかったことが明らかにわかる。
「畿内説」の誤りを完全に証明しているのである。
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
(アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている)
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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