2014年9月5日金曜日

銅鐸の古代呼称が判明した(17)三角縁神獣鏡・国産説

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 古代史ブログ講座

 銅鐸の古代呼称が判明した(17)三角縁神獣鏡・国産説

 三角縁神獣鏡・国産説の骨格になっている部分を検討してみよう。

 ① 「景初四年」と彫った鏡があること。

   これは先の検討どおり、

      魏で造ったものではないとはっきり言明している。

   しかしそのあとに続く説明は、

    「魏の年号の鏡を使用していることは、

   魏の皇帝に服属していたことを表しているから、

      魏に朝貢していた倭国のものだ」という。

   やはりヒミコ政権の鏡であって、

   その鏡が見つかった京都府福知山市あたりが

   「邪馬台国」だったと信じている説なのである。

 ② その鏡には画像をとりまく輪のなかに文章が彫ってあるのだが、

   その文面がほかの「景初三年」や「正始元年」年号の入った

   鏡の文章とほとんど同一で、

   字体も非常によく似ている。

   これは「景初四年」がないことを知らない魏から遠く離れた

   「元号を改めたという詔書がすぐに届かなかった地域」の

   人々が造ったものだ、という。

   なにがなんでも魏に服属していた国=倭国の製品だと信じこんで、

   それ以外の場合があることを考えないのである。

   しかし魏に服属していた国「ヒミコ政権」は滅びて、

   魏と戦って負けて逃げてきた元高句麗王の位宮が

   伊支馬として君臨する「邪馬壹国」になってしまったのである。

   この状態を知っていれば、

   魏の年号を入れても何の役にも立たないことはわかりきっている。

   この年号は政治的な魏の権威には全然関係ない

   「別の目的」を、考えなければいけない。

   それはこの三角縁神獣鏡が出土する古墳が、

   その魏の年号の3世紀中ごろから

   100年も後のものばかりだからである。

   この矛盾を「中国製説=邪馬台・畿内説」では、

   ヒミコが受けとったあと、

   その政権はそれを100年間使わずに保存して伝世していたからだ、

   という。

   これは最高にオカシイ。

   「邪馬台・畿内説」とは、

   その政権は奈良の天皇家だという説なのだから、

   なぜ100年ものあいだ、使わなかったのか?

   なぜ100年経ってから配布したか?その理由は何だったか?

   といったことが『記・紀』の記事で説明できなければならないが、

   その説では、それに該当する朝廷の変化については、

   何ひとつ証拠をあげていない。

   これを「国産説」は突いて、

 ③ 「100年ものあいだ保管していたというような伝世説は

    あまりにも空想が過ぎる。

    紐を通す穴の状態をみても、そんな説は認められない」といい、

   この100年のズレは、
 
   「古墳時代が4世紀から始まったとする従来の考えが

    間違っているので、私は3世紀の前半から始まったと考えている」

   と「国産説」の代表者・菅谷文則氏

    (橿原考古学研究所課長)はいう。

   それは本当だ。

   誰が考えても、せっかく鏡に権威をもたせるために

   魏の年号を入れて造ったものを、

   魏が栄えているあいだは使わずに、

   魏が滅んで世の笑いものになってから使うというのは、

   どう考えてもおかしい。

   常識では考えられない発想だ。

   とても人を納得させる力はない。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
 


 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ 

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