古代史ブログ講座
銅鐸の古代呼称が判明した(26)巨大な規模と意義と証拠力をもつ弥生水稲稲作
卑弥呼政権末期の弥生後期には、
こうして静岡県にまで、
熱帯アジア原産の「ヤポニカ稲」が普及していた。
この事実はインド、東南アジアからの移住者が、
間違いなく実在したことの裏書きである。
この場合、
弥生時代の開幕と、
アソカ宣布団の発進時期が、ほぼ一致していることは、
次のような理由から、決して偶然でなく、
アソカ宣布団の先遣隊が水稲と共に銅鐸などのインド文化、
宗教思想と器具制作者を、我が列島に持ちこんだとする以外ない。
弥生前期は先ず遠賀(おんが)川土器が北部九州に普及し始め、
水稲稲作が九州から急速に東方に広がって、
列島人の主食に米が加わった時期である。
土器は一人の技術者が製法を教えることもできるが、
稲は貴重な種子と特殊な水田を必要とし、
また長期にわたって水利を改善して守り維持し、肥料を収集生産し、
病害虫や野鳥や野獣に荒らされるのを防ぎ、手順を予知し天災に備え、
しかも生産物は主食だから、
盗難を防ぎ村落を守る武装と武力も必要である。
全てに大掛かりな労働力と団結力と管理力を必要とした
初期の水稲稲作は、
大規模な移民集団が来なければ、初期の栽培と拡張は実現しない。
水稲稲作の九州本土への初期分布は、
熱帯アジアからの大規模な移住者=すなわちソナカらが、
確かに東南アジアを経て、九州にまでやってきた、
そのコースを立証する確固とした証拠力をもっているのである。
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
(アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている)
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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