2014年9月10日水曜日

銅鐸の古代呼称が判明した(26)巨大な規模と意義と証拠力をもつ弥生水稲稲作

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 銅鐸の古代呼称が判明した(26)巨大な規模と意義と証拠力をもつ弥生水稲稲作

 卑弥呼政権末期の弥生後期には、

 こうして静岡県にまで、

 熱帯アジア原産の「ヤポニカ稲」が普及していた。

 この事実はインド、東南アジアからの移住者が、

 間違いなく実在したことの裏書きである。

 この場合、

 弥生時代の開幕と、

 アソカ宣布団の発進時期が、ほぼ一致していることは、

 次のような理由から、決して偶然でなく、

 アソカ宣布団の先遣隊が水稲と共に銅鐸などのインド文化、

 宗教思想と器具制作者を、我が列島に持ちこんだとする以外ない。

 弥生前期は先ず遠賀(おんが)川土器が北部九州に普及し始め、

 水稲稲作が九州から急速に東方に広がって、

 列島人の主食に米が加わった時期である。

 土器は一人の技術者が製法を教えることもできるが、

 稲は貴重な種子と特殊な水田を必要とし、

 また長期にわたって水利を改善して守り維持し、肥料を収集生産し、

 病害虫や野鳥や野獣に荒らされるのを防ぎ、手順を予知し天災に備え、

 しかも生産物は主食だから、

 盗難を防ぎ村落を守る武装と武力も必要である。

 全てに大掛かりな労働力と団結力と管理力を必要とした

 初期の水稲稲作は、

 大規模な移民集団が来なければ、初期の栽培と拡張は実現しない。

 水稲稲作の九州本土への初期分布は、

 熱帯アジアからの大規模な移住者=すなわちソナカらが、

 確かに東南アジアを経て、九州にまでやってきた、

 そのコースを立証する確固とした証拠力をもっているのである。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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