古代史ブログ講座
銅鐸の古代呼称が判明した(28)銅鐸は多目的の仏教用具&稲作教科書
弥生時代の銅剣型祭器の分布はその後、
四国西端から瀬戸内沿岸、中国地方へと広がって、
中国以東の銅鐸分布圏とぶつかり次第に重なって行く。
大学抗議録21の28頁で少しお話ししたが
銅鐸も弥生時代の画期的な祭器で、
ギリシャ教とは別の宗教が、
やはり「冥界=銅」という思想を受け継いでいたものとみる必要がある。
すると当時そんなことが可能だった存在は、
インドでギリシャ文化に洗礼された
仏教宣布団のウッタラ長老達しかなく、
どう視点を変えても銅鐸は彼等が考案した仏教用具、
「初期の釣鐘(つりがね)」だったとみる以外ない。
銅鐸の絵画を分析すると
「トカゲ、蛙、トンボ、カマキリ、クモは稲の害虫を食う益虫で、
ヘビ、魚はそれを食う敵、
サギや鶴は魚を食べる益鳥、
鹿や猪は稲を荒らす敵、
敵は生物であっても道具で補え、
犬や弓矢で退治て食べてもいい。
稲は高倉に蓄えて、臼と杵で搗(つ)いて食べる。
こうした文明は私たちが敵と戦いながら、
船で苦労して運んできたものだ」と解け、
すでに明かになった歴史と、
インドと周辺諸国での仏教用具発達史とを総合して考えると、
最終的結論は、
ギリシャ信仰から仏教へ人々の信仰を変えさせた流れに合わせて、
ウッタラ達が工夫した
「読経祈祷用の伴奏楽器」
兼
「水稲稲作教育用具=生物連鎖の重要牲を教える輪廻転生、殺生戒教育用具」
兼
「音響通信器具」だったというのが最も正しい結論だ。
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
(アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている)
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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