古代史ブログ講座
銅鐸の古代呼称が判明した(37)船橋遺跡が解明した弥生文化の実態
前図の船橋遺跡は大阪府枚方(ひらかた)市の最も北の遺跡で、
船橋川に沿った平地にあるが、弥生中期とされている。
それより少し後の弥生中期後半になると近くの田口山遺跡から、
石包丁と穀物貯蔵用の大型の壷が多数出土しているので、
船橋遺跡も川沿いという位置関係からみて
水稲稲作がはじまっていたことは間違いない。
すると手焙り形土器の形からみて、
写真のようなインド系の人々が、
そこに住んでいたとみていいから、
その水稲は種子島経由でやってきた
南方の稲だったということになる。
すると沖縄の久米島(クミジマ)は
沖縄語のクミ(米)の島という名と、
今、東南アジアに住むクメールの人々とを意味するとみていいから、
種子島にはいった米のルートがさらに詳しくわかる。
その種子島には今も赤米が栽培されて神事に使われているし、
同じ赤米は船橋川の流れ込む淀川の上流、
滋賀県でもやはり現在まで受け継がれている。
近江の江州米は関西を代表する米として有名だったが、
それは下図のように小粒である。
弥生時代の米がどんなものだったかをよく示している。
それを持ってきたインドの人たちがどんな人だったかもすでにお話しした。
それはソナカたちに先行して列島を北上したウッタラたちの仏教宣布団で、
銅鐸を造った人たち、
その銅鐸生産には手焙り土器が役立ったのである。
「図」米
1 インディカ米
2 タイ山地米
3 ヤポニカ(江州米)
《参考》日本人のルーツ26頁
水稲といっしょに来た弥生人&129頁水稲の来た道
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
(アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている)
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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