古代史ブログ講座
銅鐸の古代呼称が判明した(23)弥生時代を支配した金属文化
これほど明確に、
卑弥呼当時までの倭人は九州中心に、
銅鐸人は近畿中心に住み分けていた。
最近発見された大坂府や奈良県の弥生遺跡は、
「全て銅鐸人の遺跡」であって、
絶対に倭人のものではない。
では銅鐸人とはどんな人々だったのか?…。
それは大坂府の東端にある「八尾市」の地名が証明する
「ヤオ人」でなければならない。
今、中国から東南アジアに分布する彼等は、
銅鼓を儀式に使う人たちであり、
八尾は打楽器の伴奏で賑かに祭りを歌い上げる
「河内音頭」の発祥の地である。
そして銅鼓と銅鐸は同じ時代の製銅と銅器製作技術の産物で、
その形態は周の時代に始まった
礼楽用楽器「扁鐘」の発展したものである。
技術が集団の秘伝文明だった当時の時代を考えると、
中国のヤオ人と八尾人とは同じ文化集団だつたとわかる。
銅鐸を代表的文化遺産として残したのは
中国からの移住者・ヤオ人だと断定できるのである。
では北部九州だけに青銅武器文化があるのは、
南九州が遅れていたためか?…。
南九州は「鉄器文化圏」だった。
青銅の武器は鉄製武器には刃向かえないほど弱い。
卑弥呼が武力の背景なしに女王に推戴されたはすがないし、
彼女を倒した位宮も中国に
出兵したり魏の大軍と互角に戦ったのだから当然、鉄器をもっていた。
支配力は常に南にあったのである。
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
(アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている)
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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