2014年9月14日日曜日

銅鐸の古代呼称が判明した(44)サカ→サタが解いた「銅鐸・出雲大量出土」の謎と答

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 銅鐸の古代呼称が判明した(44)サカ→サタが解いた「銅鐸・出雲大量出土」の謎と答


 銅鐸が、1996年に島根県大原郡加茂町の岩倉で計38個出土した。

 これは滋賀県野洲(やす)町大岩山の記録24個をはるかに超え、

 簸川(ひかわ)郡斐川(ひかわ)町神庭(かんば)荒神(こうじん)谷で

 銅剣358本と共に出土した6個とで計44個、

 全国の出土数約500個の9%を占めた。

 分布中心地の大阪から遠く離れた出雲で、

 なぜ大量に出土したのか?。

 当時諸説があったが定説はなく5年後の今も謎のままである。

 この謎も「サカ~サタ]の歴史を知る私たちには、

 すでに京都府のサガから出雲のサタへ大移動した痕跡の確認によって、

 すべて納得のいく史実になっている。

 出土地の大原・加茂・岩倉も全て

 嵯峨(サガ)と同じ京都市北部の地名と重なり、

 私たちの着眼点の正しさを保証する。

 それはさらに前ページの地図でも、

 三河(愛知県)の小坂井というサカが新たに銅鐸史に加わった。

 これも仏教遺跡であることは動かない。
 
 なぜなら銅鐸出土だけでなく、

 三河という文字は

 「サカ」への当て字であり「サンガ」という発音もある。

 仏教ではサンガは「僧伽(サンガ)」と当て字されるパーリ語で、

 「Sanga 僧団・教団」のことである。

 また僧伽の当て字はそのまま「ソガ」でもある。

 蘇我の馬子と完全に重(かさ)なる聖徳太子の、

 倭(ウワイ)国・推古女帝政権が周知の仏教政権だったのと同じく、

 仏教を国教とした徳川氏が、

 この三河出身であることもまた決して偶然ではなく

 弥生ウッタラ政権の遺物だったのだ。

 出雲だけが例外ではありえない。

《参考》



 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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