2014年2月27日木曜日

建内宿禰・若子宿禰及び高麗神社(9)


 「古代史ブログ講座」開講にあたって
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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 出典:謎のサルタヒコ:鎌田東二編著・創元社

 建内宿禰・若子宿禰及び高麗神社(9)

 15-2.白髪神社・白鬚神社と猿田彦神

 1.猿田彦の像塔の造立地域

  庚申信仰の掛軸や庚申塔には何種類かの猿田彦の像が見られるが、

 そのなかに、風に吹かれ、衣をひるがえしている

 猿田彦の像が何基もあることが知られている。

 そこでつぎに、

 この「風に吹かれる猿田彦像」の源流と伝播について調べてみたい。

  地蔵とか観音など仏の姿を石仏として石に彫刻することは、

 わが国ではかなり古くから行われてきた。

 しかし、神の姿を石に彫ることはきわめて珍しく、

 縄文の昔から手を加えない自然石そのものを神として礼拝するのが、

 わが国古来の慣習であった。

 従って、猿田彦と鈿女の石像も室町以前のものはなく、

 江戸時代の後半から、ようやく彫造され始めている。

 この二神の石刻像は庚申塔でもきわめて少なく、

 貴重なものとなっている。

 ところが、猿田彦の石像を比較的多く遺存している地域がある。

  まずその実例を掲げよう。
 
 図は

  野田市 清水八幡神社の猿田彦大神の石像である。

 上部に日と月を刻み、正面向きの猿田彦が、

 両手で杖をついて立っている。

 長いあごひげや衣の袖が風に吹かれてなびいている。

 下部には雲が彫られ、台石には三猿がある。

 この塔は文政六年(1823)十月の建立で

 「清水邑」の「講中三十七人」によって建てられたものである。

 この石像と同じ姿の「風に吹かれる猿田彦」の庚申塔が

 密かに分布している地域が、

 千葉県の最北部で、北に舌状に伸びた野田市付近である。

 この地域は利根川から分流した江戸川の流域地帯で、

 西に埼玉県、北に群馬、栃木、茨城の諸県が隣接している。

  この地域のうち、まずはじめに埼玉県の猿田彦の刻像塔を列記しよう。

  ①北葛飾郡杉戸町堤根香取神社。

   角柱型。文政九年(1826)丙戌拾二月吉祥日。

  ②北葛飾郡庄和町倉常、愛宕神社。

   丸彫り。文政十三年(1830)庚寅十一月良日。

  ③川口市飯塚四丁目。正面向き杖突き、板駒型。弘化三年(1846)。

  ④川口市金山、善光寺。上部富士山。嘉永六年(1853)五月吉日再建。

  ⑤北葛飾郡松伏町魚沼郡東稲荷神社。角柱型。文久四年(1864)甲子霜月庚申日。

 以上、五基のうち、④川口市金山、善光寺の猿田彦は、

 富士山の下に横書きで「庚申」、彫刻の右に「猿田彦大神」とある。

 この像は、富士講や富士神社との関係の深さを示している。

  次に千葉県野田市の事例を述べよう。

 野田市には次のように、十一基の刻像塔がある。

  ①野田市桜台、桜木神社。文化十一年(1814)正月吉祥日。

  ②野田市目吹高根、馬頭観音内。文化十五年(1814)十二月吉祥日。

  ③野田市野田下町、須賀神社。文政六年(1823)葵未六月庚申日造焉。

  ④野田市清水町、八幡神社。文政六年(1823)未十月吉日。

  ⑤野田市西三ケ尾、正覚寺。文政七年(1824)甲申三月吉日。

  ⑥野田市山崎、香取神社。文政九年(1826)丙戌十二月吉祥日。

  ⑦野田市木ノ崎高根、大杉神社。文政十年(1827)亥年十月吉日。

  ⑧野田市木ノ崎新町、山王宮。文政十二年(1829)丑十一月吉日。

  ⑨野田市山崎、円通寺前通り。天保五年(1834)十一月吉祥日。

  ⑩野田市目吹、熊野神社。弘化四未年(1847)十月吉祥日。

  ⑪野田市中野台、三味寺。文久三年(1863)葵亥二月吉日。

 以上が、野田市にある近世の猿田彦像の庚申塔である。

  (さらに増加する見込み)

 野田市付近の市町村には、つぎのように

 「風に吹かれる猿田彦像」が分布している。

  ①千葉県東葛飾郡関宿町木間が瀬、天満宮。嘉永三年(1850)、

   猿田彦丸彫り像、台石に三猿。

  ②流山市西深井百八十七。安政七年(1860)庚申年三月大吉日。

  ③流山市流山、流山寺。年不明。丸彫り、三猿。

  ④流山市加、大杉神社。年不明。丸彫り、首欠け。

  ⑤松戸市大谷口、三峰神社。安政七年(1860)庚申、一月庚申日。丸彫り。

  ⑥鎌ヶ谷市軽井沢、八幡神社。年不明。正面向き猿田彦像、四角柱半肉彫り。

  ⑦印西市船尾、宗像神社。半肉彫り。

   文久二年(1862)、上部に富士山、掛軸模刻

  ⑧流山市西深井、淨観寺。線彫り猿田彦像。安政七年(1860)。

 以上八基がある。

 なお、②⑤⑧にみられる安政七年は万延元年で庚申の年であり、

 各地で庚申塔の造立がさかんであった。

 このほか、茨城県取手市新町の猿田彦像も秀作であったが、

 目や鼻が削られ、顔の特色がなくなり、残念である。
 
 これら「風に吹かれる猿田彦像」の像容はよく似通っている。

 その共通の典拠となった図像がどこかにあると考えられないだろうか。

 2.富士信仰と猿田彦

  野田市は醤油の製造で江戸時代から名高い町である。

 この付近は舟運が発達し、石材の輸送も頻繁で、

 また江戸築城以来の石工も住んでいた。

  一方、この付近は富士を霊山として崇める信仰も盛んで、

 富士講中は毎年富士へ登山をしていた。

 また庚申講も盛んで、富士と庚申の講を兼ねているものが多かった。

  そこで私は「風に吹かれる猿田彦像」は、

 富士信仰と一体となった庚申講で用いている掛軸が

 典拠となったのではないだろうか、と推測し、

 富士信仰を兼ねた庚申講中の掛軸を見てまわった。

 ところが、いくつかの講中で用いている庚申の軸の 絵は、

 まさにこの猿田彦大神の姿であった。

 しかもその軸は、富士山の神職や御使(おし)の家から、

 庚申講中で富士登山の際に求めたものと判明した。

 要するに、野田市などの「」の石像彫刻は、

 庚申講で礼拝する掛軸の絵が、その典拠であったのである。

  その一つを紹介すると、

 埼玉県小川町の庚申講中の所蔵するものである。

 この掛軸の絵を見ると、

 中央に「風に吹かれる猿田彦」が描かれ、

 その右に「庚申大神像」とあり、

 上部には富士山と日月が描かれている。

  それでは富士信仰で、

 この猿田彦の掛軸が発行、頒布されたのはいつからだろうか。

 調べてみると、概ね寛政十二年(1800)、

 富士で「庚申の御縁年」が唱導されて以降のことであることも判明した。

  このように、「風に吹かれる猿田彦像」の姿態の典拠は

 富士山で発行した掛軸の絵であることがわかったが、

 それならば、富士山の神職たちは、

 この猿田彦の絵姿を、どこから入手したのであうか。

 さらにもととなる絵はないのだろうか。

 あるとすれば、それはどこのどのような絵なのだろうか。

 3.「風に吹かれる猿田彦像」の典拠

  風に吹かれ、衣をひるがえす猿田彦の姿が

 最初に描かれた貴重な絵画はいったいどこにあるのだろうか。

 いろいろ調査を重ねた結果、

 このタイプの像のもととなった最初の絵は、

 伊勢市浦田町の宇治土公家に所蔵されているのであろう。

 というのが目下の私の結論である。

  すなわち、代々猿田彦大神を祖神として祀り、

 伊勢神宮の玉串大内人(たまぐしおおうちんど)という

 要職をつとめる宇治土公家に、

 「玉串大内人宇治土公定哉」の賛のある

 猿田彦大神の御神像の軸が所蔵されている。

 この姿こそ、野田市などの猿田彦像の原拠と考えられるのである。

 この絵は『猿田彦神社読本』(1942年、猿田彦神社社務所発行)に

 掲載されていて、まちがいなく「風に吹かれる猿田彦像」である。

 ただ、現物を拝見していないので、明確には断言はできない。

  この絵には

 「道は大日孁貴の道、教猿田彦大神の教なり」の賛がある。

 これは垂加神道の山崎闇斎の言葉である。

  享保十二年(1727)正月に宇治土公定森は『庚申は御本縁』を著し、

 猿田彦大神を祭神として礼拝祈願する神道庚申の街の普及に尽力した。

 また定哉はその信仰を広布する手段として、

 この絵軸を富士の神職などに頒布した。

 このことからこのタイプの像容が各地に広まったのでないだろうか

 (「庚申御本縁」に関しては『庚申―民間信仰の研究』を参照されたい)。

  なお、明和五年(1768)に刊行『庚申利生記』の挿絵にも、

 よく似た猿田彦の姿が描かれているが、

 これも宇治土公家の御神像の絵画によったものに違いないだろう。

  このように、

 一般の人々に猿田彦大神の神像やイメージを焼き付ける働きをしたのは、

 絵軸や石像であった。

 その原拠は宇治土公家に所蔵されている絵軸である。

 これを見ると、猿田彦は眉目秀麗でもないし、やさ男でもない。

 鼻が高く、赤ら顔のひげっ面で男性的といえば聞こえはよいが、

 むしろ容貌魁偉である。

 表情は怒気を含み、老翁ながら威厳に満ちている。

 そして裸足で雲上に立ち、榊の枝を杖にしている。

 これが「風に吹かれる猿田彦像」の本来の姿であった。

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