「古代史ブログ講座」開講にあたって
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《考古学&古代史の諸問題》
《参考:年表・資料》
出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦
建内宿禰・若子宿禰及び高麗神社(1)
1.高麗(こま)神社〔全国神社名鑑〕
埼玉県入間郡日高町新堀町[(現)日高市新堀]
祭神 高麗王若光、猿田彦命、武内宿禰
由緒:霊亀二年武蔵国に高麗郡の置かれた時、
その首長である従五位下高麗王若光が
郡中の繁栄を祈るため、
日頃崇敬した猿田彦神と武内宿禰を祀り、
白鬚神社と称したのが創始といわれる。
若光が没してのち、従者らが霊廟を建て
高麗明神と崇めた、やがて白鬚神社と合祀し、
高麗大明神と名付け、同郡の総鎮守として
人々の信仰が篤かった。〔霊亀二年:716年〕
2.「続日本紀」文武天皇 大宝三年四月〔703年〕
乙未(4日)従五位下高麗若光に王の性を賜ふ。
3.「埼玉叢書」第六巻 御役所 〔明治期に記された〕
武蔵國高麗郡高麗郷古傳
続日本紀巻之七、元正天皇霊亀二年以<2>駿河・甲斐・相模・上総・下総・2>
常陸・下野七國高麗人千七百九十九人<1>遷<2>于武蔵國<1>置<2>高麗郡<1>、1>2>1>2>1>
土人傳ヘテ云フ、高麗王若光國亂ヲ避ケ親族重臣ト共ニ國家ニ帰化ス、
諸ノ臣民之ニ従フ者相尋テ帰化ス。
若光又孝清ト云フ、
高麗郷ハ高麗王ト居ノ地タルヲ以テ親戚貴族多ク此ニ群居セリ、
其後或ハ散シテ開墾ニ就ク、高麗王猿田彦大神ヲ崇敬シ郡中ノ榮盛ヲ祈リ、
因テ一社ヲ建白鬚大神ト称シ、武内宿禰ヲ配祀ス、
神護著ク高麗王モ又善ク衆ヲ撫シテ衆人稍シ生計ヲ安ンズ。
其没スルニ及テ貴賎相集リ其霊ヲ祭リテ高麗明神ト崇メ、
遂ニ白髪神社ニ合祀ス、高麗神社之ナリ、【新堀村内字大宮ニ在リ】
諸氏散シテ各村ヲ開ク者、白髪神社ヲ各地ニ遷スニ及テ、
高麗神社ヲ大宮ト称シ又高麗惣社ト特称ス、【中古記スル者問ウ之アリ】
郡中白鬚神社最多シ、中古二十一社ノ称アリ。
高麗神社ハ往昔大宮山ノ巓字御殿ノ上ニ在リシヲ
中古其東麓今ノ地ニ遷セリト云フ、…略…
郷中著族ト雖高麗氏ヨリ出ル者ハ井上・駒井ノ二氏ナリ、
高麗性ノ者井ニ釣瓶ヲ忌ムコト何ノ謂タルヲ知ラスト雖、
井上氏ノ新堀村ニ在リ駒井氏ノ横手新堀村ニ在ル者皆之ヲ固守シ、
汲ムニ柄杓ヲ以テシ、千古傳ヘテ家例ト云フ、
駒井舊ト高麗井ト書ス、…略…
4.高来神社〔神奈川県中郡大磯町高麗〕
「筥根山縁起」
次 神功皇后討<2>三韓<1>後有<2>武内大臣奏<1>云、1>2>1>2>
奉<2>請異朝大神<1>而令レ祈<2>願天下長安寧<1>矢、1>2>1>2>
即奉レ遷<2>百済明神于日州<1>、奉レ遷<2>新羅明神于江州<1>、1>2>1>2>
奉レ移<2>高麗神和光于当州大磯聳峰<1>因名高麗寺1>2>
※武内[建内ッ宿禰が係わっていた
※「大礒」は「大磯」で町名であるが同地に
「小磯」地区があることから「磯」地となる。
この「磯」の漢字語義は岩石が露出している砂磯のない海岸[広辞苑]で、
砂浜が続く湘南海岸にはふさわしくない地称である。
※「イソ[磯]」
(Heb.)עשר,IShR,isher 財産、富。〇豊かさ、豊富◎「財」 をあらわす
大磯町高麗の東境、平塚市との間を流れる
川名が「金目川」で「財」に対応する。
またその別称が「花水川」であるが「カスイ」は
「高麗郡高麗郡古傳」がいう「若光」の別名「孝清[コウセイ]」に対応し、
いわゆる「若光」が初め尾お磯町に居り、
後の機に日高市の「高麗」へ遷ったことを表わしている。
因みに大磯町大磯には「高麗王」の「王」によるとみられる「王城山」
そして、その麓には「長者町」の字名が現在もある。
「長者」とは財力を備え権勢をも持った者の呼称である。
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