2014年2月2日日曜日
ミシャグチ・サボ
「古代史ブログ講座」開講にあたって
Matのジオログ
『My ブログ』
《考古学&古代史の諸問題》
《参考:年表・資料》
諏訪大社
諏訪大社
Wikipedia:氷川神社
Yahooh検索『武蔵一宮:氷川神社』
武蔵一宮:氷川神社・境内案内
出典:歴史学講座「創世」:小嶋秋彦
ミシャグチ・サボ[佐補・三・沢]
「秋田の阿良波波岐神」
金峰山神社[秋田県平鹿郡雄物(おもの)川町大沢]
祭神 荒羽々岐神、金山毘古神也
大沢の「沢」[シュメル語]地下水 諏訪の「佐補」に同じ
同地には北ノ沢、駒場沢、黒沢、小沢沢、内ノ沢などの「沢」がある。
雄物川の対岸には「深井村」がある。
「雄物(おもの)」の語義
雄「ユウ」<"あゆ":水を流す。「零(ゆ)う」
物「ブツ」<"石" batu
よって「雄物」とは「石を流す」の語義と」なり、
同地において「金峰山」あるいは「金山彦」が祀られていることから、
「砂金」あるいは「砂鉄」を土類を水流に流していたことの
証左となります。
「甲賀三郎、諏訪三郎」
◎「延喜式」神名帳 近江国甲賀郡 水口神社「ミナクチノ」
「全国神 社名鑑」水口(みなくち)神社(大宮さま)滋賀県甲賀郡水口町宮の前
祭神大水口宿禰命、大己貴命他
(現)大岡寺は江戸時代まで諏訪神社である。
◎「神道集」諏訪縁起の事
甲賀三郎 「サブ・郎」 za-ab 地下(水)
よって「三郎」とは「地下界を遍歴する男」の語義で、
この物語の基本に合致する。
「大宮さま」この「大宮」はさいたま市の「大宮」と同じで、
「泉の宮」の語義
「水口」とは「泉」と同義で「ミズグチ」は
「ミシャクチ:御左口/御社宮司」に音が近い
◎古城山(282.9m)水口町本町・大岡寺の東側に広がる山
古城[岡山城があったことに依って採用された漢字]
「コキ」これは「香久(山)」と同じ語源
ka-gun₂ 〔口-土地〕地口、しかして「泉の口」にして「水口」
《参考》『神道集』東洋文庫:238頁・282~285頁
「諏訪縁起の事」
日本はわずか六十余州、それを七街道に分ければ、
逢坂の関よ西は東海・東山・北陸の三道、国の数は三十余りある。
畿内すなわち山城・大和・和泉・河内・摂津の五カ国は、
名誉と利権の帝都の地、支配者の亀鑑(てほん)にする模範都市だから
さて置いて、東山道の筆頭(トップ)は近江の国、
その甲賀郡の地から荒人神が現れた。
神の名を諏訪(すわ)大明神という。
この神出現の由来をくわしく調べてみよう。
安寧天皇から古代の孫で、
甲賀郡に地頭をしている甲賀権守諏胤という人があった。
隠然たる勢力をそなえ、諸国の間ではその人ありと知られた傑物で、
明け暮れ、何一つ不自由なくすごしていあた。
奥方も同じく王統の末で、
大和の添上郡の地頭、春日権守の長女であった。
夫婦仲は古い譬えにいう金の衾にかわす鴛鴦(おしどり)の翼、
魮䱉の愛というのもこういうものかと思われるばかり、
まことにむつまじい。
この鴛鴦夫婦の間に三人の男の子がいた。
長男は甲賀太郎諏致、次男は甲賀次郎諏任、三男を甲賀三郎諏方という。
……中略……
その後、また日本国から、
氏神の兵主大明神がお使いを平城国まで出して、
「お願いします。どうか本国へお帰りになって、
衆生守護の神におなり下さい」とたのまれた。
早那起梨の天子は、「それはまことにごもっともです」
といって点の早車を提供される。
夫婦二人は車に乗り、
兵主大明神の使者とともに信濃の国蓼科の嶽に到着した。
梅田、広田、大原、松尾、平野などの大明神たちも集まり、
後につき従われた。
信濃の国の岡屋の里に立って、諏訪大明神(名乗りが諏方だから)
という名で上の宮として出現された。
諏方と書いてスワと読む。
この都はもと岡屋の庄とよんだが、今は大明神の名乗りによって諏方郡という。
また春日姫は、下の宮として現れた。
維摩姫もこの国に渡って来て、神と現れたが、春日姫と対面して、
互いに別れることを嘆き合い、
同じ国内に住みましょうと宮地を選んで社を建てた。
今の世に浅間大明神というのがこれである。
甲賀三郎が神と現れたと聞いて、兄達も集まって来た。
兵主大明神が仲裁にはいってうまくはからったので、
兄弟の仲も平和になり、いずれも衆生擁護の神として現われなさった。
中でも甲賀次郎は、前に犯した罪を後悔し、反省して、
詫び状を入れて許しを乞うたので、諏方も哀れんで他の神々に相談して、
北陸道の守護神として、若狭の国の田中の明神となった。
甲賀太郎は以前から下野の国の宇都宮にいたので、
示現太郎大明神となった。
父甲賀権守は赤山大明神と現れた。
みな本地は弥陀、薬師、普賢、千手、地蔵である。
このうち甲賀三郎諏方は上の宮に現れた。
本地は普賢菩薩である。
春日姫は下の宮と現れた。
本地は千手観音である。
仏菩薩が仮に迹を垂れてこの日本に遊行したまうには、
必ず身に苦悩を受け、衆生の嘆きを察知なさるのである。
十八
ここにまた不思議な話が一つある。
上野の国の一の宮と申すのは、
南インドの拘留吠(くるべい)国の人である。
その由来を調べてみると、この国には六七六六カ国がある。
その中の草皮国には九八七二郡がある。
この国の長者は球餝大臣といって、最愛の姫君が五人いた。
姉四人はそれぞれ拘留吠国、賢貧(けんどん)国、舎衛(しゃえ)国、
摩詞陀(まかだ)国などの国王の后になり、
中で好美女という末娘だけがまだ嫁せず家にいた。
この姫は国中に並ぶものもない絶世の美人であったので、
ゆくゆく沙羅樹(しゃらじゅ)国の大王の后になると決まっていた。
草皮国の大王がこれを聞いて、
「わが国の美人なら、何としてもこの国に置くべきである。
よその国へ出すことはない。さきざきわが国の后にしよう」
といって邪魔をしようとした。
父の長者はこれを聞いて、
「同じく后にするなら、十六の大国の大王たちの后にしたい。
こんな小国の后などにできるものか」
といってとり合わなかった。
そこでこの国王が腹を立て、
夜間不意に襲撃して父の大臣を殺してしまった。
長者の姫、好美女は助かって逃げたが、重ねて、
「后にしよう」と言い寄った。
好美女は、
「親の敵と結婚することなどできません」
と最後まで従わなかったので、
大王は姫を在所から追い出し、領内を追放すべしと決議した。
好美女はこれを聞いて、
「この国ばかりがわたしの住みかというわけでもありません」
といって、抜提河(ばつだいが)の真ん中に抜鉾という鉾を立て、
その上に好玩団(こうがんだん)という布団を敷いて住んだ。
この川の深さは三十七丈、広さは八十五里もある。
その国王が重ねていった。
「この川も自分の知行する国の内。
それほどの賢女ならば、よもや敵の領国内には居るまいよ」
姫は、
「もとより承知です」
と御座の鉾を引き抜き、小腋にはさんで、いった。
「他に国がないわけではありませんよ」
三人の美女を引きつれると、姫は三月半ば、
この早船に乗って日本へ渡り、信濃と上野の国境、
笹山(ささやま)の峰に飛び下りた。
今、荒船山というのがこれである。
その召された荒船をこの山の頂に伏せて、
船中に生国の記念として残していたインドの抜提河の水を、
劫末(ごうまつ・世の終わり)の時が来て火の雨が降った時、
この水で消すように、と誓ったと伝えられる。
さて諏方大明神は、母御前のいる日光の嶽へ通ううち、
この姫と互いに顔見知りになり、男女の道に心を移して夫婦になった。
そこで諏訪の下の宮なる女神が聞いて嫉妬された。
「目と鼻の近所にいるのでご機嫌を損ずるのでしょう」といって、
上野の国甘楽郡尾崎郷に御社を立て、山を隔てて住んだ。
御座の鉾を引き抜き、
小腋にはさんでこの日本へ飛び越えられたから、
抜鉾大明神というのである。
三人の美女のうち、一人を荒船山という。
一の宮の本地は弥勒菩薩である。
今から五十六億七千万年後、
弥勒が世に出る三絵(さんえ)の暁に結縁する衆生は、
たとえ悪道に堕する罪があってもきっと出世成道の暁に会うであろう、
それを疑ってはならぬ。
そもそも諏方大明神は、神と現れてからすでに年久しい。
過ぎて来た年は幾千年であろうか。
またこれから先も幾千年かはかり知れぬ。
その流浪の初め威徳天皇の御代から宣化天皇まで
年数九百八十年である。
利生ひとえに早く、賞罰のきびしさも国内無双である。
下の宮の御誓いに、
「わが身は女性であるゆえに、心憂き恥を見たのですから―――」
とて、永く他人の膚を戒め、
特にこれを荒膚といって深く戒めている。
上の宮の御誓いには、
「わが身は久しく他国に流浪し、
父母のご恩に報いなかった不幸の罪は軽くない」
とあって、現に先立たれた後の服喪を厳重に戒めている。
よってこの二方の明神の御心にかなうためには、
服喪と荒膚は深く忌まねばならぬ。
よってこの二方の明神の御心にかなうためには、
服喪と荒膚は深く忌まねばならぬ。
諏訪明神は維縵国(ゆいまんこく)での狩の時の習慣によって、
狩庭(かりにわ)を非常に大切な行事とする。
以前」、四条院の時、嘉禎三年丁酉五月、
長楽寺の寛提僧正が供え物に不審をもったので、
利生ひとえに早く、賞罰のきびしさも国内無双である。
下の宮の御誓いに、
「わが身は女性であるゆえに、心憂き恥を見たのですから―――」
とて、永く他人の膚を戒め、
特にこれを荒膚といって深く戒めている。
上の宮の御誓いには、
「わが身は久しく他国に流浪し、
父母のご恩に報いなかった不幸の罪は軽くない」
とあって、現に先立たれた後の服喪を厳重に戒めている。
諏訪明神は維縵国(ゆいまんこく)での狩の時の習慣によって、
狩庭(かりにわ)を非常に大切な行事とする。
以前」、四条院の時、嘉禎三年丁酉五月、
長楽寺の寛提僧正が供え物に不審をもったので、
大明神に祈請をこめて、
「権者・実者の垂迹はどちらも仏菩薩の化身として、
衆生の済度をかたどっています。
それなのにどうしてあんなに多くの獣を殺すのですか」
と申し上げて、眠りにつかれた。
その夢の中で、前に懸けておいた鹿、鳥、魚などが、
いずれもみな黄金の仏になって雲の上に登ってゆくと見た。
そのあとで、大明神は笏で袖をかき合わせながら、
野辺に住む獣 我に縁なく憂かりし闇」になほ迷はまし
(野に住む獣は、もし私に結婚しなかったならば、
悲しい闇になお迷ったことであろう)
そういって、雲の上に昇る仏たちを指して、
「業尽きぬる有情は放つといへど生ぜず。
故に人天に宿して即ち仏果を証す」といった。
哀れなことよ。
業の尽きた生き物は解放してやってもしょせん助からない。
だからしばらく人界・天界の胎に宿らせて、
最後には仏果を証明する、というのである。
寛提僧正は随喜の涙をこぼし、
声をたてて泣く泣く下向された。
まことに哀れな話である。
以下略………………………………
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿