古代史ブログ講座
《古代史ブログ講座》古代日本語の成立過程
講師:歴史研究家「金原 政敏」
◎「白=シラ」はギリシャやマレーと共通
このことでまた別の疑問をもたなければいけない。
それは黄色だけがマレー語だったのかということである。
するとマレー語では彫刻家が使う白い石膏を「シラ」と呼ぶから、
東南アジアでもやはりギリシャ語の「シラ」が
「白」の意味で使われていたことがわかる。
ギリシャでは西の国を「シラ」と呼び、
その首都を「シラキウス=新羅御主=のちのシラクサ」と呼んだ。
その「シラの国」が、
イタリア半島では「チレニア」「チラナ」などと訛り、
ラテン語に翻訳されて
「アルバニア=白の国」などとして今も現に残っている。
またマレー語で「シラング」というのは
「十字形=プラス型」のことだから、
薩摩の嶋津氏がその十字形を家紋にしていることと、
薩摩に現存する枚聞・開聞から知林ガ島・知覧にかけての
シラギに結びつく複数の地名と、
壹與の子孫で小国日本と呼ばれた鹿児島の領主だつた
7世紀の天智天皇が、
朝鮮の正史『三国史記』では
「新羅王・金春秋」として記録されていることなどを考えあわせると、
新羅を「シラギ」という不思議な発音で読むのは、
ギリシャ語の「シラキウス=新羅御主」などを語源とする
「シラング」が鹿児島流に短縮されて
「シラギ」になったものだという結論に、
自然になってしまう。
マレー語ではまた「黒lを「イタム」「イタン」という。
これに当て字すると「伊丹」が ぴったりだが、
伊丹さんはもともと鹿児島で発生した姓なのである。
このイタムは方言化すると「イタブ」にもなるから、
「板付」もイタブに対する
当て字だつたものが、後世に
「イタヅケ」と発音されるようになったものとみると、
いま福岡空港のある板付(いたづけ)は、
九州北部にある位置関係からみて、
やはり3世紀の「五彩圏連邦」当時の、
北の国を意味する地名遺跡だったことが
確認できたことになる。
そしてそれはまた同時に、
3世紀当時の倭人のあいだでマレー語が使われていた事実の動かぬ
証拠にもなって、従来の『魏書倭人章』研究などとは比較にならない、
非常に精密な歴史の真相が浮かび上がってくることが、
おわかり戴けたと思う。
この「イタム・イタン」の問題は、さらにもっと重要なことを教えてくれる。
それがいつ「黒」の意味で、地名として名づけられたか、
その時代と意味を『魏書倭人章』が教えてくれるからである。
ご覧いただきたい。
『魏書倭人章』には
この「イタム」に当てた漢字の「名」が「3つ」入っている。
まず国々の名をみると、
九州北部にある国は対馬、一大、末盧、伊都、奴、不弥の6カ国であるが、
この中に「イタム」にあたる「国名」が「2つ」ある。
「一大国」は、別にそれほど言語学の知識がない人がみても、
「一=イ」
「大=タ」
「国=マ」で、
「イタム」に対する当て字としてピツタリだとすぐわかる。
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
(アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている)
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
0 件のコメント:
コメントを投稿