2014年3月21日金曜日

虫追い〔松明まつり〕と稲作の神(2)


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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 虫追い〔松明まつり〕と稲作の神(2)

 久伊豆神社(越谷市東越谷):「氏子」

 久伊豆神社(ひさいずじんじゃ)〔さいじんさま〕
  埼玉県越谷市越ヶ谷1700(越ヶ谷町花田)小林(東小林)

 「氏子」

 『風土記稿』 四町野村の項には、

 「当村及び越ケ谷宿・大沢町・瓦曾根村・神明下村・谷中村・

  花田村七ケ所の総鎮守とす」

 と記されている。

 この「七ケ所の総鎮守」とされた由緒から、

 明治六年には郷社に列せられた。

 その後、市町村制や町名変更の施行を経て、

 現在の氏子区域は、宮本町(旧四町野村、四丁野村とも書く)・

 越ケ谷・越ケ谷本町・中町・御殿町・柳町・宮前一丁目・花田・弥生町・

 赤山町・新明町(旧神明下村)・谷中町・瓦曾根・東越谷の一部である。

 このうち、越ケ谷本町は、本町二-三丁目・元御殿・四丁野道に、

 越ケ谷は、新石一-三丁目・袋町・音和町・新道、

 更に宮前・東宮前の各一部に、

 中町は、本町一丁目・中町に、

 宮前一丁目が宮前・東宮前の各一部に区分される。

 なお、東越谷の一部は宮前に含まれる。

 氏子の役員には、総代と世話人がある。

 総代は各地区から一名ずつ、合計二三名が選ばれ、

 このうち四名が責任役員となる。

 世話人は、地区ごとに一-三名が互選され、現在は三九名である。

 ほかに、例祭の本祭りの折の年番がある。

 表町と称される本町一-三丁目・中町・新石一-三丁目・弥生町の八地区が

 順番で務め、

 渡御にかかわる一切を取り仕切る。

 なお、表町はそれぞれ山車を所有しており、町内を巡行する。

 各山車には大きな人形が飾られ、地区ごとの自慢となっている。

 それを示すと、

 本町一丁目「竜神」、

 同二丁目「楠木正成」、

 同三丁目「素戔鳴尊」、

 中町「鍾馗」、

 新石一丁目「神武天皇」、

 同二丁目「鍾馗」、

 同三丁目「弁慶」、

 弥生町「日本武尊」である。

 また、神輿を担いだり、神宝・威儀の物を奉持するのは、

 昔から宮本町(旧四町野村)の氏子の役となっている。

 ほかにも「しめぶち」呼ばれる、

 年末の神社の注連縄(しめなわ)の張り替えを行うなど、

 神社との結び付きが最も強い地区である。

 これは、

 江戸期に当社の別当であった迎摂院の所在地であることによるという。

 神宮の第六十一回式年遷宮の折、当社は内宮の旧板垣南御門を拝領した。

 その奉祝のため、

 平成七年、拝領古材を氏子・崇敬者に披露する

 「越谷お木曳き祭」が盛大に催された。

 この行事に当たっては、神宮から奉曳車一台を借り受け、

 また、伊勢神宮奉仕会の全面的な協力を得た。

 その後、中心を担った当行事実行委員会と百人委員会が基盤となり、

 同八年に「久伊豆神社奉仕会」が結成された。

 当会の目的は、祭典・行事の折の奉仕活動、神宮初穂曳への参加、

 伊勢神宮奉仕会との交流、会員相互の親睦会や勉強会の開催などである。

 当地ゆかりの江戸期の学者に平田篤胤と越谷吾山がいる。

 このうち篤胤は国学者で、

 文政三年(1820)、当社に「天岩戸」の絵馬を奉納している。

 また、境内には、篤胤の仮寓跡とされる「松声庵」がある。

 当地の門人に、山崎長右衛門篤利がおり、

 経済的に援助をすると共に、養女を後妻に入れた。

 山崎家には、篤胤に関する多数の書状や、著書の版木が残されている。

 更に、県の天然記念物に指定されている藤も

 門人の川鍋国蔵が移植したものと伝えられている。

 吾山は、新町(現新石)の名主会田家の出身で、

 方言学の始祖といわれ、

 特に『諸国方言物類称呼』の書は著名である。

 俳人でもあり、境内に嘉永二年(一八四九)の句碑が残っている。

 当社では、昭和六十二年より、月に一回、「小教院」を開講している。

 これは、氏子・崇敬者を対象に、『古事記』を中心に学ぶもので、

 国学院大学の阪本是丸教授を講師に招いている。

 《Key Word》

 『参考』 『諸国方言物類称呼』

 「越谷吾山」

 「注連縄(しめなわ)」
 
 「久伊豆神社(越谷市東越谷)」
 

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